JINSEI STORIES

滞仏日記「息子とマルシェに買い物に行った。ぼくは号泣しそうになる」 Posted on 2020/11/08 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、今日は土曜日なので、マルシェが立つ日だった。
春のロックダウンの時は封鎖されたが、今回は開いている。
ぼくは息子に「買い物付き合ってくれないか」と訊いた。
最初は「行かない」と断られたが、出かけようとしていると、「行く」と言って、マスクを付けながらやってきた。
もしかすると、二人でマルシェに行くのは彼が10歳の時以来かもしれない。
それ以前、三人家族だった頃はよく出かけていた。
息子はプセット(ベビーカー)に乗っていた。
今はぼくに変わってキャリーバックを引っ張ってくれる。
まるで大統領のボディガードのような体躯をしている。
「何がおかしいの?」
歩きながら、息子が言った。
「いや、別に」
ぼくはいつもの息子の口調を真似てみた。でも、微かに嬉しかった。
ロックダウンのパリで、自分よりも大きくなった息子と二人、マルシェに行く。



実は、離婚する前、このマルシェの入り口で旧家族は暮らしていた。
その後、二人家族になってから、ぼくらはマルシェを挟んだ小さなアパルトマンに引っ越した。
古い家から新しい家まで歩いて一分もかからなかった。
「懐かしいな」
「うん」
「ほら、あそこ。昔の家だ」
「・・・」
息子にとってマルシェは過去を思い出す場所かもしれない。
彼はこのマルシェの中を歩いて登校していた時期があった。
「なんだか、覚えているけど、うっすらしてる」
「うん」
「でも、あっちはまだ覚えてる」
ぼくがマルシェを挟んだ反対側にある建物を指さして言うと、息子は、そうだね、と同意した。
その家で4年、ぼくらは暮らした。
「行こうか」
「うん」

滞仏日記「息子とマルシェに買い物に行った。ぼくは号泣しそうになる」

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滞仏日記「息子とマルシェに買い物に行った。ぼくは号泣しそうになる」

「パパ、どうなってんの? この人出、これじゃ、感染止められない」
マルシェの入り口でぼくらは立ち止まり、入るかどうか、ためらった。
とにかく、物凄い人だかりなのである。
「それに、見て。これ、あれじゃない?」
息子が指さしたポスターには、テロに注意、と書かれてあった。
「たしかに、テロリストにとっては狙いやすい場所だよね。フランス人が無防備に列をなしているんだから」とぼく。
「怖いね」と息子。
「人の少ない店を選んで、サクっと買って帰ろうか」
ぼくらは人だかりを避けるようにしながら買い物することになった。



トルコのボレク (börek)屋(ピザみたいな)で昼飯を買い、魚屋でサーモンとイカを買い、八百屋でミズナとほうれん草を買い、キノコ屋でトランペット(黒い茸)とシイタケを買った。

滞仏日記「息子とマルシェに買い物に行った。ぼくは号泣しそうになる」

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滞仏日記「息子とマルシェに買い物に行った。ぼくは号泣しそうになる」



「今夜は鍋だ」
「いいね」
「何か他に食べたいものある?」
「唐揚げとか」
「いいね」
ということでぼくらは鶏肉屋の列に並んだ。
「テロリストがいないか、見張ってくれ」
「うん」
「銃声とか叫び声が聞こえたら、余計なことは考えずに、走って逃げろ」
「パパを置いて?」
「生き抜いたら、家で再会しよう」
「やれやれ」
ぼくらは笑いあったけど、ちょっと緊張していた。
フランスは感染拡大とテロという二つの脅威の中にあるのだ、ということを再認識した。
いつ何が起きてもおかしくない状況だった。

その時、ぼくの後ろの高齢のマダムが、
「そんなこと言わないで、あなたはいつも小言ばかりね」
と言った。
で、ちらっと背後を振り返ると、マダムは一人だった。
え? ぼくに言ったのかな?
「だから、その話はもうやめてよ。いつだって、あなたは文句ばかりね」
ぼくはもう一度振り返った。
ご主人に、電話でもしているのかな、と思った。
でも、携帯は持ってない。ヘッドフォンもしてない。
そして、何かを言う時、自分の右手を振り返って、そこにいるのだろう、誰かに向かって言ってる。
息子も気がついて、目が合った。
息子が肩を竦めながら、「彼女には見えるんだね」と言った。
やっぱりそういうことか…。

滞仏日記「息子とマルシェに買い物に行った。ぼくは号泣しそうになる」



並んでいる間、ずっと、そのマダムは右側に立つご主人(?)に話しかけていた。
たわいもない、内容のない、小言みたいな、…。
そこに誰かがいるのが伝わってくる。いや、いるのだ。
怒ってるわけではないけど、ごく普通の夫婦の会話で、口調はそっけないけど、愛がある。
彼女が何かを言う時、首を右側に傾げ、告げている。
「よく聞き取れないんだけど、なんて言ってるの?」
「知らないよ」
「でも、気になるじゃん」
「パパ、失礼だよ。ほっといてあげようよ」
「あのね、パパは作家なんだよ。気になるんだ。本当にそこにご主人がいるのか、どうか」
「いないよ。死んだんだ。多分、最近」
その言葉にぼくは衝撃を受けた。きっとそうだ、と思った。

マダムは70歳くらいだろうか、ご主人とは長い付き合いだったに違いない、その光景が目に浮かぶ。
いつも小言を言い、喧嘩の絶えない関係だったのだろうけど、それは仲が悪いというのじゃなく、むしろ逆で、生きる上であまりに近く、大切な存在だったのだ。
だから、夫の死を受け入れることが出来ないのである。
「なんか、パパ、泣きそうだよ」
ぼくは日本語で言った。言いながら涙が目元に溜まり始めた。
これって、あまりに悲しい話しじゃないか、と思った。
息子は前を見て、もう振り返らなかった。
順番を待っている間、ずっとそのマダムはご主人に話しかけていた。
「もうすぐクリスマスなのよ。私はオマールにしたい。でも、いつもあなたは肉が食べたいっていうから、今年もきっとローストビーフを作ることになるんでしょ? 分かってる、分かってる。だから、何も言わないで、もう分かったから」
ぼくは号泣しそうだった。
「ムッシュ、何にしますか?」
店の人がぼくに言った。なぜか、いろいろなことが頭を過ぎっていった。
でも、答えられなかった。
息子が、パパ、と言った。何にするかって言ってるんだよ。
ぼくは、10年後、どうしているのだろう、と思って寂しくなった。
「あの、ちょっとまだ決めかねているから、こちらのマダムを先に、どうぞ」
とふった。
マダムと目が合った。彼女の視線はぼくを通り越していた。
彼女に見えている世界がぼくにも少し見えた気がした。
するとマダムが、ローストビーフを指さして、
「それ、二人分、ください」
と言った。

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