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滞仏日記「フランソワーズ先生への手紙」 Posted on 2020/11/07 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、息子は「担任には自分から相談に行く」とぼくには言った。
彼を信じないわけじゃないけれど、ころころと進学の方針が二転三転するその信念のなさから、やはり、ここは先生に親の気持ちをぶつけるべきだろう、と思った。
フランス語の手紙など書いたこともなかったが、一晩徹夜して、辞書を片手に、ぼくにしては長文の手紙を認めることになる。
そして、息子には反対されたけれど、ぼくは自分を抑えることが出来ず、早朝、先生にメールを送り付けてしまった。



日本から戻ったばかりで時差ボケも酷かったが、短編小説を書き終えたような高揚感に包まれながら朝トイレに行くと、起きてきた息子とかち合った。
おはよう、と言ったが、案の定、低血圧の息子から返事は戻って来ない。
それでもぜんぜんへっちゃらであった。
なんたって、ぼくは「鬼フラ」こと、鬼のフランソワーズ先生に手紙を送り付けてやったのだから、…。

実際のフランス語のメールは酷いのでお見せ出来ないが、ぼくが書きたかった本意を日本語にしてみた。
だいたい、このようなことを先生に伝えたのである。



≪フランソワーズ先生。
進路について、春ごろ、息子と話し合いましたが、最終的に、彼は自分自身でコースを選び、ぼくは彼の意志を尊重することにしました。
息子は「法学の道に進むので数学はこれ以上必要ない」とぼくに説明をしたのです。そして彼は実際に数学を放棄してしまいました。
しかし、今学期が始まり、息子の幼馴染の親たちから「今、この段階で数学をやめてしまうのはいかがなものか。それは彼の未来の扉を閉めるようなものだ」と言われるようになり、ここのところ、ちょっと困惑しています。
ご承知の通り、ぼくは日本人で、フランスの教育制度については正直、よく理解出来ておりません。
もちろん、息子の説明を信じたのですが、もしかすると、一番楽なコースを選んだのではないかという疑念が起こります。
それで、本当に大丈夫なのか、と問いかけると、息子はぼくに、パパにはフランスの教育の背景がまるで分かってない、と言います。
もちろん、息子は息子なりによく頑張っています。
親がまともにフランス語を喋ることが出来ないので、長年、自力で宿題などをやってきました。
その努力と勤勉さは多分、先生が一番理解されていることと思います。
こんな心配は全く杞憂かも知れませんが、しかし、学校から戻ると趣味の音楽に費やす時間の方が圧倒的に多く、どこまで必死で勉強と向き合っているのか、よくわからないのも事実なのです。
というようなわけで、先生のご意見をお聞かせいただきたいと思いました。
なぜなら、まだ新学期が始まって2ヶ月、数学や英語のオプションコースを追加で取ることも可能ではないかと思ったからです。
ぼくは息子の将来のため、できるだけ多くの選択肢を持たせてあげたいし、彼がフランスで独り立ちできるように、親として最大限、応援したいと思っています。
今、世界は不安定で、最低限の努力をしていただけでは仕事を見つけることがとても難しい時代になってしまいました。
その過酷な時代を生き抜く彼への指針を頂ければ幸いです。



11時頃、息子が一度、昼食を食べに家に戻ってきたので「なんか先生言ってなかったか」と訊いてみたところ、
「別に」
と息子。
「そうか」
「なんで? なんかしたの? まさか、メールした?」
「した」
「マジ?」
「問題あるか? 親が先生に質問するの普通だろ。パパの仏語が下手過ぎて恥ずかしいか? パパはぜんぜん恥ずかしくないよ。日本人の親が必至で書いたメールをバカにする教師はあの学校にはいない」
息子は黙って、うつむいてしまった。

ともかく、ぼくはやるべきことをやったことで満足していた。
賽は投げられた。あとはフランソワーズ先生からの返事を待つだけだった。
昼食にサンドイッチを作った。甘い卵焼きの入ったふわふわ卵サンドと、きゅうりとハムのサンドイッチだった。
美味いものを拵えて食べさせる。これはぼくの仕事だ。
息子はそれを残さず食べ、再び学校に戻り勉強をする。それは息子の仕事である。
「美味かったか?」
立ち上がった息子に浴びせた。
もちろん、返事なんか戻らない。
しかし、うつむき加減の息子の動揺が伝わってくる。
これでいいのだ。

滞仏日記「フランソワーズ先生への手紙」

滞仏日記「フランソワーズ先生への手紙」

午後、仕事をしているとメールがいくつか飛び込んできた。
その中にフランソワーズ先生からのメールが混じっていた。
非常に短いものだったが、ぼくを十分に満足させるものであった。
Bonjour monsieur (こんにちは、ムッシュ)
Ne vous ibquietez pas (心配しないで)
Je ferai le point avec lui (私が彼と話します)
Bien à vous (敬具)



遅い夕方、息子が学校から戻ってきた。
「どうだった? 担任に会えたか?」
「今日は会わないよ」
「じゃあ、明日か?」
「知らないよ」
「先生からメールが来たぞ」
息子が再び驚いた顔をしてみせた。
この作戦はそれなりにうまくいってるのかもしれない、と思った。
息子はフランソワーズ先生を信頼している。彼女の助言には耳を傾けるだろう。
あの文面からするとフランソワーズ先生はきちんと息子と話し合ってくれるはずであった。
学校で一番恐れられている教師だったが、なぜか、息子は彼女に気に入られている。
これは大事なことで、間違いなく、親身になって彼の未来を考えてアドバイスをくれるはずだった。
「なんだって? 先生」
「ムッシュ、心配しないで、自分がお前と話すってさ。よく話すんだぞ」
息子は小さくため息を零すと、自分の部屋へと入って行った。
ひとまず、ぼくに出来ることはここまでかな、と思った。

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