JINSEI STORIES
ヴェネツィア日記「気が付くと、サンマルコ広場に立っていた」 Posted on 2021/07/12 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、アンドレアがとってくれた宿に荷物を預けて、ぼくは早速、ノートを持ち、カメラをぶらさげ、20年ぶりのヴェネツィアを散策することになる。
「冷静と情熱のあいだ」の時も、フィレンツェを取材したのはわずか二日間だけだった。
それでも実際に足を運んでその空気感を感じることはとても大事で、短い滞在の中で何と出会うのかは、ある種、作家の運のようなものがある。
ぼくは息子の進学問題で頭を抱えていたので、そこから少し離れるにはいい意味で気分転換にもなった。
アンドレア曰く、400ほどの太鼓橋がかかっているのだそうで、ぼくは何度もそこを登って降りなければならなかったが、これが、最初のインスピレーションをぼくに与えた。
その下をゴンドラが通過していく。太鼓橋の上でぼくは何度も立ち止まり、通過するゴンドラの写真を撮影した。
今はどうも干潮のようで、満潮干潮によって水位が異なるため、石壁の一部が濡れていて、ああ、これはセーヌ川にもあるな、と気が付くことが出来て、ぼくの頬が緩んだ。
20年前に訪れた時、映画祭の人だったと思うが、このまま温暖化が進むとあと数十年でヴェネツィアは海の底に沈むかもしれません、と言われた。でも、その水位はこうやって太鼓橋の上から見る限り、あまり昔と変わっているようには思えない。何か対策をとっているのだろう。満潮になる夜にもう一度、確認をしてみようと思った。
行く当てもない旅なので、掲示板のようなものを頼りに、迷路のような路地をひたすら歩いた。
同じ場所をぼくは何度か通過した。
見知らぬ土地に行くと、まず、カフェを目印にする。
カフェの名前を覚える。同じ名前のカフェがあると、自分が道に迷っている証拠である。
ぼくは小説の舞台を探していた。
主人公が住んでいるだろう家とか、その地域とか、主人公が通うカフェだとかは、とっても重要なのだ。
そういう場所を決め込むのは容易なことじゃないが、ぼくは物おじしない、どっちかというと図々しいタイプなので、観光客のいない、地元民でごった返すような店にもすっと入っていくことが可能で、しかも、イタリア語など全く話せないが、知ってる単語だけで、店員や客と、結構、長話したり、盛り上がったり出来る天才なのである。笑。
人々の雰囲気とか、外国人との接し方、冷たいのか、暖かいのか、優しいのか、そうじゃないのか、など、飛び込まないとわからないものがあるのだけど、イタリア人は、毎回、思うが、親切で優しい。ヴェネツィア人も多分に漏れず心優しい人たちだった。
「グラッツェ・ミーレ」
とってもありがとう、みたいな便利な言葉で、ぼくはこればっか連発していた。
自分が日本人で小説を書いてると説明し、ガイドブックに載ってないようなものを探している、と伝えた。
すると、カフェの店主は面白がって、いろいろと教えてくれた。使われてない井戸のこととか、最近あったゴンドラ事故のこととか、泥棒の見分け方とか、渡し舟の有効利用など、いっぱい、教えてくれた。
必ず、旅先では出会った人に何か印象を植え付ける。これは凄く大事、相手に覚えてもらう。いざという時に、助けて貰えるのである。
ぼくはこの方法で何度か実際救われたことがあった。その店主はセバスチャンという名前だった。
セバスチャンは、アンドレアに続いて、二人目のベニスの知り合い、ということになる。
当てもなく歩いていたら、1時間ほどして、広場に出た。
あれ、ここ、サンマルコ広場じゃん、と思った。
生まれてはじめてヴェネツィアを訪れたのが1993年とかその頃のことで、でも、その時とは印象が違っている。
花売りが近づいてきて、ぼくに薔薇を差し出したけど、ぼくが肩をすくめ、誰に? というジェスチャーをすると、1人か、という顔をして、すぐにひっこめた。
ぼくは石段に座り、ノートを取り出して、主人公の背格好とか、顔だちとかを想像しながら描いてみた。いつも思うことがある。
自分がここで生まれていたら、ぼくはどういう人生を生きただろう、ということだ。
旅先で必ず口にするので、昔、息子に指摘されたことがあった。
「生きてみなきゃわからないことを、小説家っていちいち言葉にするんだね」
「生きてみなきゃわからないことを、いちいち想像するのがパパの仕事だからだよ」
つづく。