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大波の彼方へ――世界を魅了する北斎 Posted on 2017/06/08 清水 玲奈 ジャーナリスト・翻訳家 ロンドン

大波の彼方へ――世界を魅了する北斎

大英博物館で、葛飾北斎(1760年―1849年)の晩年にスポットを当てる「大波の彼方へ」展が始まりました。タイトルの「大波(グレイト・ウェイブ)」は、連作「富嶽三十六景」(1831年出版)のうちの「神奈川沖浪裏」に付けられた英語圏での通称で、ただ大きいだけではない偉大さ、壮大さを感じさせます。海外でも広く知られる北斎の代表作です。
 

大波の彼方へ――世界を魅了する北斎

版画である浮世絵は、いわば大量生産の複製芸術。江戸時代後期には庶民のお楽しみで、おそば2杯分の値段で買えたそうです。しかし、北斎をはじめとする絵師と、彫師・摺師の共同制作による技の結晶が、現代では芸術作品として世界的に高く評価されています。ロンドンの浮世絵ギャラリー店主に聞いた話によると、大英博物館の展覧会が発表されたとたん、北斎の人気はさらに上昇し、有名な絵柄で質の良いもので20万ポンド(約3000万円)だった評価額が50万ポンド(約7500万円)まで跳ね上がったとか。
 

大波の彼方へ――世界を魅了する北斎

北斎「凱風快晴」(1831年)、大英博物館蔵 ⓒThe Trustees of the British Museum

 
 
同じ絵柄の作品が複数存在する浮世絵ですが、版木が若いうちに刷られて細部がくっきり出ていて、なおかつ状態が良いものが珍重され、「神奈川沖浪裏」なら大英博物館所蔵の作品が世界有数のレベルとされています。この作品をはじめ日本や世界各地から北斎の傑作を集めた今回の展覧会は、入場料12ポンド(約1700円)。ちょっと高級なパブのフィッシュアンドチップス1皿分です。私は一般公開前に仕事で訪れる幸運に恵まれたのですが、もう一度お客さんたちの熱気を感じながら見たくなり、開幕初日、2歳の娘と、子守のためにロンドンに来ていた母を連れて行きました。
 

大波の彼方へ――世界を魅了する北斎

会場の目玉はやはり「グレイト・ウェイブ」。約26センチ×38センチの実物を目にした人たちからは「意外と小さい」という感想が漏れますが、それでも迫力は圧倒的。
 

大波の彼方へ――世界を魅了する北斎

北斎「神奈川沖浪裏」(1831年)、大英博物館蔵 ⓒThe Trustees of the British Museum

 
 
北斎は30代から繰り返し波の表現を模索していたことが、展覧会では他のさまざまな作品で紹介されています。自らを画狂老人と呼んだ北斎が70歳を超えて行きついた境地。波頭の触手を伸ばすかのように小舟に迫る波、弾ける水しぶき、遠くに雪を頂く富士山――荒波の沖合という想像上の視点で、写真のない時代に一瞬を鮮やかに切り取っています。
 

大波の彼方へ――世界を魅了する北斎

 
北斎は、生涯にわたって何度も号(創作用の名前)を変えました。図録に寄せられたアンガス・ロッキャー教授(ロンドン大学東洋アフリカ研究学院)の論文によれば、最も広く知られる「北斎」は、北極星に由来した号です。北斎が傾倒した仏教の北辰妙見信仰では、天体の動きの中心にある北極星があがめられていました。そして、北極星と同様、移り行く世界の要にある不動の存在が富士山です。精力的な活動を続けて、90歳で死ぬ間際には「天があと五年存命させてくれれば、本物の画家になれただろうに」と言い残した北斎。遺作「富士越龍図」は、富士山の上空に昇っていく龍が、北斎自身の姿を思わせます。
 

大波の彼方へ――世界を魅了する北斎

北斎「富士越龍図」(1849年)、長野県小布施町北斎館蔵

 
 
肉筆画にも才能を発揮した北斎は、1820年代、オランダ商人の注文を受けて西洋絵画のスタイルで日本の風俗画を制作しており、シーボルトらがこれをヨーロッパに持ち帰りました。
 

大波の彼方へ――世界を魅了する北斎

北斎の作とされる「端午節句」(1824年-1826年)、オランダ・ライデン国立民族学博物館蔵

 
 
「グレイト・ウェイブ」は、北斎が西洋絵画に触れた体験を生かして遠近法を大胆に取り入れた構図と、さらには舶来絵具プルシアン・ブルーによる澄んだ青によって実現しました。一方、ドビュッシーは北斎にインスピレーションを受けて交響曲「海」を作曲し、ゴッホやモネらヨーロッパの画家たちも大きな影響を受けました。
 

大波の彼方へ――世界を魅了する北斎

北斎作の上町祭屋台天井絵(1845年)、「女浪図」(左)と「男浪図」(右)。縁絵は北斎の下絵、高井鴻山の彩色。北斎館展示管理・上町自治会所蔵

 
 
薄暗い大英博物館で、背の高いイギリス人たちに交ざって大波の彼方の富士山を見ていると、遠く離れた場所にいて、懐かしくしかも新鮮な故郷の風景に出会えたような気持になります。会場に居合わせた日本人の私たちに、好奇心に満ちたイギリス人たちはさまざまな質問を投げかけてきます。「富士山が最後に噴火したのはいつ」「富士山は本当にいろいろな場所から見えるのですか」。前回の里帰りで、羽田上空から夕景の富士山を見て、日本に暮らした頃の回想にしばしふけったことを思い出しました。
 

大波の彼方へ――世界を魅了する北斎

Posted by 清水 玲奈

清水 玲奈

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Reina Shimizu
ジャーナリスト・翻訳家。東京大学大学院総合文化研究科修了(表象文化論)。著書に『世界の美しい本屋さん』など。ウェブサイトDOTPLACEで「英国書店探訪」を連載中。ブログ「清水玲奈の英語絵本深読み術」。