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「決められた旅ではなく、ガイドブックを持って」 ミシュラン副社長ベルナール・デルマス氏インタビュー Posted on 2017/05/31 辻 仁成 作家 パリ

創業者兄弟であるエドワールとアンドレというミシュラン兄弟がいた。
エドワールは芸術肌でアンドレはエンジニアだったが、エンジニアだったアンドレがパリへ、芸術肌だったエドワールはクレルモン=フェランで暮らし始めた。

当時、地図もなければ、どこに何があるかもわからない、パリ市民はせっかく車を持っていてもパリ市内をぐるぐる回っているだけだった。それを見たアンドレが、ガイドブックを作ることを思いついた。
ガソリンスタンド、修理工場、レストラン、ホテル……。パリを離れてしまったら1日では帰れない。
だからこそ、ガイドブックが必要だった。
 

「決められた旅ではなく、ガイドブックを持って」 ミシュラン副社長ベルナール・デルマス氏インタビュー

©MICHELIN

 
さて、私は今日、ミシュラン社の副社長、ベルナール・デルマス氏とパリ、マドレーヌのホテルで対面した。
日本のミシュランの社長を長年務めあげたデルマス氏は日本語が堪能、奥様も日本人である。向かい合ったとたん、開口一番彼はこう言った。

「何か、脇道に逸れるような話をしましょう。調べたらわかるような退屈な話じゃなく、決められたコースじゃなく、旅するような」

この一言で私はこの人が好きになった。そして、さすがにタイヤ会社の副社長だな、と思った。道を逸れて旅するような話をしましょう。私は予め用意していた資料を机の下に隠した。
そして、柔和なこの紳士と向かい合ったのである。
 

「決められた旅ではなく、ガイドブックを持って」 ミシュラン副社長ベルナール・デルマス氏インタビュー

©Takeshi Miyamoto

 
 デルマスさんが初めて日本にいらしたのは何歳の時ですか?

ベルナール・デルマスさん(以下、敬称略) 1985年、31歳の時に日本に赴任しました。

 ミシュランの技術部長になった時ですね。実は、僕が初めて買った車がルノーなんですよ。ルノーサンク。ちょうど85年頃です。中古車でしたけど、その時のタイヤがミシュランでした。

デルマス 私の初めて買った車はルノー・キャトルでした(笑)。日本で初めて買った車はマツダRX−3サバンナ。最高の車だった! だけど残念な点は燃費が悪かったこと。レーシングが好きでしたからね。ル・マン24時間レースで日本の車が歴史上1回だけ優勝したことがあるんですけど、それはマツダ787B。1991年です。その時はロータリーエンジンの技術だった。

 ヨーロッパでマツダは多いですよね。やっぱりル・マンでの優勝経験があるからですかね。

デルマス そうですね。特にドイツとか、ヨーロッパで人気があります。

 1985年にデルマスさんが日本に来られた頃にはもう日本でミシュランタイヤは販売されていたんですよね? 85年に日本で技術部長に就任された頃のお話を聞かせてください。

デルマス はい。日本で販売を始めたのは1964年の東京オリンピックの時からです。私が日本に就任した当時は日本語も話せないし、日本のことを何も知らなかったけれど、とてもショックを受けました。日本は技術などフランスよりすごい先進国なのに、それと同時に歴史と文化のバランスもすごかった。最新の技術と歴史、文化が両方存在する場所。ブラジルにも住んでいたことがありますし、アメリカにも何度も行ったけれど、文化という面では日本に適わなかった。”アジアの国の中の一つ”として想像していた以上に日本は生活し易い場所だった。安全だし、何でも売っているし。私は歴史が好きですから、もっともっとこの国の文化や歴史を勉強したいなと思ったんですが、残念ながらあの頃はあまり時間がなかった。

 一般的にね、フランスから駐在で日本に来た人って、4年くらい日本にいても、まったく日本語が話せないまま帰国する人が多いようですが、デルマスさんは日本語がとてもお上手ですよね。

デルマス 日本語は難しいです。まずはひらがなとカタカナの勉強をしたけど、子どもの本しか読めない(笑)。一番効率が良かった日本語学習は、仕事でお客様のところに行く度にしていたことですが、ミーティングが終わった後に必ず、今話したことを日本人スタッフに質問し、書いて、わからない言葉の意味を教えてもらったんです。それを2年くらい繰り返しやっとわかるようになりました。勉強したいという思いがあった。モチベーションがあれば一生懸命やるでしょう。私はその頃、将来の奥さんにも出会ったし、日本語を勉強しないといけないって強く思いました。日本がとても好きになりました。日本語を話したいと思った理由はいろいろあるけれど、「日本が大好き」というのも理由の一つです。

 会議も日本語でできるほどの日本語力だとお伺いしました。

デルマス 私の30年間の経験からして、日本語で話していることを英語に訳してしまうと全然違う言葉になってしまう。正しく伝わらずに違った意味になってしまったり、微妙に違ってくると思うんです。だから、できるだけ日本人とは日本語で話したい。
 

「決められた旅ではなく、ガイドブックを持って」 ミシュラン副社長ベルナール・デルマス氏インタビュー

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 日本のどこが一番好きですか? 

デルマス 仕事を通して一番好きなのは、日本の技術者や、世界に誇る日本の自動車メーカーです。特に印象に残っているのは、最初の300ZXの開発をした技術者たちが本当に素晴らしかったということ。自動車メーカーにタイヤを売る前に、技術者とタイヤとサスペンションのチューニングをするんですよ。ちょっとわかりにくいと思いますが、簡単に言うと操縦安定性、乗り心地、いろんな性能を調整すること。それをサスペンションエンジニアとテストドライバーと我々のチームでやっていくんですけど、各エンジニアとはよくぶつかりましたね。でもそれは最高のモノを作り上げようというプロ意識がそれぞれの中にあるということですから、その意識が素晴らしいと思っていました。

 そうでした、デルマスさん技術者出身でした。今はミシュラン本体の副社長をやられている。技術畑にいらした頃、どこの技術を担当されていたのですか?

デルマス 私は製造技術です。初めは研究ではなかったんです。研究者からの指示を受けて、じゃあ、工場でどういう風に作ろうか、という過程が私の仕事でした。本当に面白いですよ。

 世界に三つしかないミシュランの主要研究所の一つが、群馬にありますね。

デルマス もともと技術の本社からアジアに工場を作ろうと依頼されました。アジアのイメージは太陽がいっぱいで、冬もそう厳しくないと思っていた。でも、初めてクリスマスの時期に北海道に旅行をしてみたら、すごい大雪でびっくりしました。東北と北海道に行って、「これはスノータイヤのマーケットがあるな」と確信しました。それで、日本でテストを始めようと思いました。東京はモロッコくらいの緯度、そして、札幌はボルドーと同じなんです。もともと私のイメージとして、日本はあまり雪が降らないと思ってた。でも、実際はマイナス15度くらいまで普通にいきますよね。フィンランドやノルウェーみたいだった。フランスやスイス、オーストリアの比ではなかったです。

 昔、僕は帯広に7年間住んでいましたから、冬になると父がせっせとスノータイヤに交換してました。その昔はチェーンだったんですけどね。

デルマス しかし、そのスパイクタイヤが道路のアスファルトを削って粉塵が出てしまい1982年に大きな社会問題となってしまった。その頃の日本は各地方自治体がスパイクタイヤの規制条例を制定するなど活発な動きがあり、1991年にスパイクタイヤ粉塵の発生防止を制定する法律が日本で定められました。北ヨーロッパと同じタイヤを売っていたんですが禁止となってしまったので、その代わりに1982年よりスタッドレスタイヤの販売を日本で開始したんです。

 構造上の違いを教えていただけますか?

デルマス スタッドタイヤには穴が開いていて、クオリティのためにスタッド(スパイク)をいれてるんですよね。だから、どういう風にその代わりをするか、ということを考えた。代わりができるものは「ゴム」だけでした。ゴムだけじゃなくパターンをたくさん入れて、すごく面白い技術を始めた。ミシュランが最初です。「日本はこういう風な場所だからスタッドレスタイヤの開発をやろう」と言って、私が中心になってやりました。まだその頃は日本に研究所がなかったので、いろんな資料を持っているフランスの本社研究所の技術者が開発をして、テストは日本で行いました。TOYOTA、NISSAN、HONDAなど、日本のメーカーはみんな静かなタイヤを注文するんです。ヨーロッパでは静かなタイヤなど注文されたことがなかった。ドイツのアウトバーンでは制限速度もないですから、どちらかというと安全面へのウエイトが大きい。日本は制限速度が90Km/hぐらいですから、スピードより乗り心地が大切になる。
「ミシュランのタイヤはうるさいな」って言われて(笑)。 結論的に、これは日本で開発した方がいい。日本に研究所を作った方がいいなっていうことで、群馬県太田市に研究所を作ることになりました。

 なるほど、そういう経緯があって、世界で三つしかない主要研究所が群馬県太田市にあるんですね。驚きました。ところで、2007年からミシュランガイドが日本で発売されました。その時、デルマスさんは何をされていたんですか?

デルマス その頃は日本ミシュランタイヤの代表取締役社長でした。前の社長が急に亡くなってしまって、私がフランスから戻り社長に就任したのですが、すでにミシュランガイドの編集もできていました。このプロジェクトは3代目ミシュラン・グループ社長のエドワール・ミシュランと前社長ビュッソンが生んだものなんです。この2人が2005年に東京のミシュランガイドを作ろうと決めた。だけど、その2人が、2006年、2007年と続けて亡くなってしまって……。それで2007年に私が日本でミシュランガイド東京を発表することになりました。2人をよく知っていた私は、発表の時は涙が流れて話せないくらいでした。気は重たかったけれど、彼らのプロジェクトを実現できて本当に嬉しかった。
 

「決められた旅ではなく、ガイドブックを持って」 ミシュラン副社長ベルナール・デルマス氏インタビュー

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 実は、ご存じだと思うのですが、ミシュランガイドが日本で発表された当時、日本ではまさに賛否両論の渦の中でした。僕の知り合いのシェフたちも意見が二分してまして、賛成派と反対派が、まるで幕末の日本みたいな(笑)。外国のガイドブックに何がわかるんだという意見が多かったですね。当時は、大変ではなかったですか?

デルマス 正直言うと、2009年の京都が一番大変でした。京都は大変だった(笑)。よく覚えてます。ガイドブックを作る時に、役所や地域の人にご挨拶に行くんですよ。だからまず門川大作京都市長の所へ行って、「2007年から東京のガイドを発行しています。2009年は関西に進出すべきだと思っています」とミシュランガイドの説明をさせていただきました。そしたら大変厳しい意見をいただいて……、ただ、最後に「やってください。けど、やるからには、しっかりやってくださいね」と言われました。その後、建仁寺のミシュランガイド発表式典でご一緒したのですが、私は普段あまりストレスを感じないタイプだけど、その時はとっても緊張しました(笑)。私の次が門川市長のスピーチだったんですが、門川市長は「平安時代に中国から日本にお茶が伝わった。日本は中国のお茶を取り入れ、今、素晴らしい日本茶が存在します。今日、ミシュランガイドが発表されます。素晴らしいガイドとなってほしい」と仰ったんです。とても素晴らしいスピーチでした。

 日本って食の伝統や文化もすごく強い国でプライドも高いから、京都が難しいのはあたり前で、そこを乗り越えたっていうのが今に繋がっていますね。欧州から来たミシュランが日本の伝統的な食をジャッジするわけだから、これはなかなか容易なことではないですよ。

デルマス これから京都・大阪のガイドを作るっていう時に、日本人の友達が私に言ったんですよ。「よくやるねー。勇気あるね」って(笑)。結局、ミシュランガイドの評価基準は、食材の質、調理の技術高さと味付けの完成度、料理人・シェフの独創性、コストパフォーマンスそして常に安定した料理全体の一貫性。一つずつを見たら、簡単なんですよ。だからいつも私が例にあげるのが、シュークルートや、カスレ、お寿司、パスタ……いろんな料理がありますけど、シュークルートが嫌いだったらそのお店は3つ星はもらえないのか? ということ。その土地土地に古くから伝え残る料理等にも素晴らしいモノが数々ありますし、個々の作品とは違い歴史とともに受け継がれて来た料理もまた素晴らしいですから、それらをどう扱うか、捉えるかということです。

 老舗レストランのシェフたちを納得させ、最終的に、大勢がミシュランガイドを受け入れようとなった、きっかけは何ですか?

デルマス 一番難しかったのは、我々の料理の評価対象が「『皿の上のもの』の評価」だということ。日本は料理を目で味わうでしょう? そこは私たちも賛成なんだけど、食べるものだから、やはり最終的には「味」で決める。今はフランスもそうなってきましたけど、日本の料理はエステティックがすごく大切。「日本の料理は味だけじゃないよ」ってよく言われましたね。あとは、他の料理人・シェフとお互い比べたくないという状況でした。昨年が日本初のミシュランガイド、ミシュランガイド東京2008(2007年11月発行)の発行から10年目を迎えました。現在、日本で発行しているミシュランガイド全体で、3000軒以上のお店が載っています。
 

「決められた旅ではなく、ガイドブックを持って」 ミシュラン副社長ベルナール・デルマス氏インタビュー

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 でも、ここまでミシュランガイドが日本に浸透できたのはやはり日本への愛情と情熱が深いデルマスさんがいたからこそじゃないですか?

デルマス みんなの応援があったから、ここまでこれたと思いますよ。

 そういう謙虚さはまるで日本人ですね。素晴らしい。ミシュランガイド東京の次が京都・大阪版と続いたのですか? ここが越えられたらもう大丈夫ですね。一つ気になったのは、日本で発行されているミシュランガイドにだけは飲食店・レストランの外観や内装、料理の写真が入ってるんですけど、それはどうしてですか?

デルマス そうですね。写真が入った方が綺麗だからね。ミシュランガイド東京も2007年版と2017年版では全然質が違います。でもまだ写真が良くないんですよね。なんといってもミシュランの調査員は匿名でレストランに行きますから、写真が撮りにくい! でも、写真があった方が綺麗だなと思って。今はまだちょっと実験中です。

 タイヤと一緒ですね。ここでも、まず日本でテストしてる(笑)。

デルマス 京都は飲食店・レストランとホテルに加えて、旅館も入れました。ただ、旅館は食事も食べられますけど、旅館の料理は特別ですから。いろんな意味で評価が難しい。

 そうですよ。しかも、素晴らしい旅館というのはまたプライドが高く、料亭に負けないくらい伝統のある世界です。ミシュランガイドの調査員の方々は、本当によく日本の食文化、いや文化を勉強して、深く研究されていますね。ミシュランガイドの調査員は全部ミシュランの社員がやっていて、調査員になるためにトレーニングをしていると聞いていますが。

デルマス 研究というか、見て、聞いて、いろんな質問をするくらいです。調査員はプロの調査員に付いて1年くらいの研修期間があります。日本にいてもいろんな国の料理を知っていないといけないので。

 フランス人ほど日本の文化を理解できる人たちは他の国にいないんですよ。だから、フランス人が日本文化を理解できなければ、たぶん誰もわかってくれないと思う。フランスってキュレーションの力が相当ありますから。ジャポニズムの時代に遡っても、日本文化を最初に発見したのはフランスですし。19世紀の中頃にはすでに日本文化の良さをフランスの知識階級は理解していました。僕は「永遠者」という作品で当時のことを調べたのですが、日仏の文化の交流の歴史の深さに驚かされます。

デルマス フランスはヨーロッパの中心に位置します。周りにイタリア・スペイン・ドイツがある。だから、フランスの文化はいろんな国の文化が混ざっているんです。南へ行ったらアラブの文化の影響もあるし、北の方に行くとイギリスの文化の影響がある。フランスの歴史は移民の歴史なんです。特にフランス人はすごくオープンだったからね。フランス人は異文化を受けて、勉強して、面白いところを上手に取り入れる。日本人もそうじゃないですか。すごく似てるんですよ。日本とフランスの両国に暮らして、私は幸せですよ。とても楽しいです。日本とフランスというのは面白い国です。フランス料理と日本料理、両方ともユネスコの世界遺産に登録されているのも共通していますね。
 

「決められた旅ではなく、ガイドブックを持って」 ミシュラン副社長ベルナール・デルマス氏インタビュー

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 これからミシュラン社はどのような道を走っていくんでしょうね? もちろんタイヤもガイドブックも、それ以外のことも聞いてみたい。

デルマス 我々は日本では「チャレンジャー」でいたい。世界的なリーダーであると共に、特に日本ではチャレンジャーなんです。競合他社は強敵ですけど(笑)、もっともっとタイヤも売っていきたいですよ。ガイドブックではリーダーシップを見せて。ビジョンというか、スタッフたちと全員が同じ目標を持つことが大切。たとえば、私は日本のミシュランガイドをフランスのミシュランガイドと同じものにしたい。フランスのミシュランガイドは2000ページありますから。薄い紙を使って2000ページ! 日本全国を制覇したいです。まだ3、4割ですから。

 デルマスさんは現在ミシュラン・フランスの上席副社長ですけど、何か大きな野望はおありですか?

デルマス 自動車産業では日本とフランスはどちらも歴史がある。現在日本の飛行機に主に使われているタイヤはミシュランと他社メーカー1社です。そう考えると、今から大きくなるのは飛行機産業ではないかと思います。1970年にフランスとドイツによる企業連合として設立された「エアバス社」。そこで使用されるタイヤに厳格な選定プロセスを経てミシュランが選ばれたんです。皆さんエアバスと一緒に仕事をやりたがっているんですけど、その中の一つにミシュランがある。今後もとても楽しみです。
ミシュランガイドはソフトビジネスだけど、それもとても大事なことだと思うんです。

 ミシュラン社のソフト事業とハード事業の間にいるのがデルマスさんですね。デルマスさんは今、パリですけど、もう日本には戻られないんですか?

デルマス 今は特別なプロジェクトがあってフランスにいますけど、また夏から日本に戻ってミシュランガイド関係や、日本でプロジェクトを続けていく予定です。湯河原温泉の別荘に早く行きたい(笑)。

 最後に、日本の食について何か一言ください。

デルマス フランス料理は高い値段を出せば本物が世界で味わえる。しかし、日本料理は日本以外の国で本物を味わうことは難しい。できないことはないけれど、材料の問題などもありますし。美味しい日本料理を食べたければ日本に行くしかないです。

 それは本当によくわかります。フランスにも和食を頑張って出している店がありますけど、食材の違い、水の違い、湿度の違いはごまかせないです。僕はだから自宅で味噌を拵えています。フランス人のシェフ仲間にその味を伝えたりしています。でも、こちらの食材だけでは再現は難しいんです。だから、「本物の和食を食べるなら日本にぜひ行ってください」と僕は必ずフランス人の友人らに言ってます。ミシュランガイドの三つ星とは、「そのために旅行する価値のある卓越した料理」。まさにその通りですよね。今日はどうもありがとうございました。
 

「決められた旅ではなく、ガイドブックを持って」 ミシュラン副社長ベルナール・デルマス氏インタビュー

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posted by 辻 仁成