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自分流塾「自由というものが、私たち人類に問いかけるもの」 Posted on 2023/05/01 辻 仁成 作家 パリ
あなたは今、自由ですか?
自由になりたい、と誰かがつぶやく。
じゃあ、その自由とはなんだろう。
幕末期、英語のリバティは「自由」と訳されていた。
自由の「由」にはいろいろ意味がある。
よりどころ、理由、いわれ、口実、趣旨、事情、手段、縁、風情…。
これらの単語の前に「自らの」とつけると面白い。
自らのよりどころ、自らの口実、自らの事情、自らの風情…。
幕末の人々がリバティという言葉を必死で考えた様子が伝わってくる。
現代の日本やフランスでは、「自由」はだいたい保障されている。(一部の独裁国家、戦時下の国では難しい)
でも、そうなんだけど、なんでか、ぼくらはなぜか自由を実感できないことが多々ある。
人間的欲望をそこにすべて託しているからかもしれない。
自由という言葉には複雑な罠が潜んでいる。
「俺は自由だ。なんだってできる」と誰かが叫んだとして、でも、そうだろうか。
自在と自由を混同していないか?
もともと、リバティは「自在」と翻訳されたが、微妙に違うね、ということになって、
「自由」に落ち着いた。
自在とは、たとえば「相手を自分の意のままに操る」ということだ。
これは独裁と一緒、みんなが自在を実践すれば世界は成りたたない。
「自由」はむしろその対極にあるのかもしれない。
この限りある世界で相手との関係性を考え抜いた上で、思慮分別を伴って自らの「由」を探ること。
十代のころ、ぼくは無邪気に「自由」という単語を連呼していた。
ECHOES時代、「フリーダム」という曲まで作ったほどに。いい曲でしたけどね(自画自賛の自由なり)。
自由という単語はロックミュージックや詩や映画のセリフに多用された。
でも、六十年代のヒッピーさんたちが夢見たような自由は実現しなかった、のかな・・・。
自由というものはそう考えるととっても不自由な哲学かもしれない。
自由になりたい、と思う時の「自由」とはかけ離れている気もする。
自由という哲学はむしろ人間に問いかけている。
それは物欲や性欲やありとあらゆる欲望を解放することではなく、逆に、自分を見つめるということかもしれない。
その結果としての自己の解放じゃないでしょうか。
自由をむやみに口にするのは、きっとあまりよく自分を知らないからかも・・・、と思うようになってきた。
自分を突き詰めていく時に見えてくるものがある。
自分から解き放たれることが自由なのかもしれない。
「自由」という言葉が人々を苦しめている気がしてならないのだ。
「自由になりたい」
いいえ、あなたはそもそも自由なんだよ。
ぼくも生まれつき自由なんだと思う。。
自由であるかそうでないかは、自分が決めること。
時の独裁者に拘束されたとしても、ぼくは誰にも支配されない、自信がある。
牢獄にぶちこまれても、心の中で歌うし、隠れて小説を書くだろう。
ペンを取り上げられたら、毎日、心の中に、詩を紡ぐだろう。
不自由な世界の中にいるからこそ、ぼくは自由をしっかりと意識して生きることが出来ている。
再び大きな戦争が忍び寄るこの不穏な時代だからこそ、ぼくらは自由であることの意味を噛みしめて生きていかないとならない。
騙されてはいけない。
自らを由しと思える世界を失わないように、意識を研ぎ澄ませるのだ。
posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家。パリ在住。1989年に「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞、1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野にも幅広く活動。Design Stories主宰。