THE INTERVIEWS
フォトグラファー、七種 諭「人生は一期一会。ギャラリー DA-END の挑戦」 Posted on 2017/04/13 辻 仁成 作家 パリ
渡仏、15年。最初に借りたアパルトマンの大家が七種 諭であった。
日本人として唯一、『VOGUE ITALIA』誌の表紙を始め世界の名だたるファッション誌の撮影などを手掛けた第一人者であり、伊丹十三や白洲次郎ばりのルックスと知性と国際性が圧倒的で、渡仏したばかりの私を常に驚かせる存在でもあった。
こいつはライバルだ、と思わせるに十分な面構えでもあった。パリ中が市民ミュージシャンの奏でる音楽によって包まれる音楽祭(fete de la musique)の最中、私は最上階の窓から身を乗り出し騒然とするオデオンの市内を見下ろしていた。
そこに目立つ一人の男がいた。カメラを銃のように構え、人々を連写している。人込みの中心に立ちカメラを抱えて歩く姿はまさにライオンのようでもあった。なんだ、あいつ? と思った。
するとその男はやがて私が暮らす建物に入ってきて、しかも我が家のドアをノックしたのである。
やあ、と七種 諭が言った。それが我々の初対面の瞬間であった。
辻 僕たちもう年だからさ、時間がない。今日はいっぱい話しておかなきゃならない。
七種 諭さん(以下、敬称略) (笑)わからないよ、長生きするかもしれないよー。
辻 まずは写真の話からしようじゃないか。ベールに包まれた七種 諭を暴かなきゃならない。ネットで検索しても諭が見つからなくて笑ったよ。DSのライター紹介も最初はゴリラの仮面をかぶった写真を送ってきたし。そうやって自分を隠してももはや意味がない。我々は十分に年を取りすぎた。そろそろベールを脱がないと、そのまま棺桶に入ってしまうことになるぞ(笑)。ところで、『VOGUE ITALIA』誌の表紙を撮るようになるまでのことを知りたいんだけど。
七種 1985年初頭にパリに来て、日本と違って時間がゆっくり流れていて、スナップとか写真を撮っていたんですけど、じゃあ、なんか形にして人が見やすいようにブックみたいなものを作ろうってことになって。アイデアは、ギリシャへ旅行した時に撮った、海でおじいさんがプール用の水泳帽をかぶってるポートレートがベースになってる。洋服とかって複雑だから、取り敢えず顔と帽子をテーマにした。それで、おじいさんの帽子とか、デコラティブでファッショナブルな帽子とか、帽子をかぶっているドキュメンタリーな写真とファッションを合わせたブック(プロモーション用の)を作ったんですよ。写真は10枚くらいだったかな。でも、それを誰に見せればいいかよくわからなかった。写真のエージェントといってもその頃はあまりなかったから。
辻 何歳の頃の話?
七種 そうだな、27歳くらいかな。3件くらいあった大きいエージェントの内の一件が面白いんじゃないって言ってくれてブックを預かってくれ、チャンスがあったら誰かに見せるって言ってくれた。それで、その頃ちょっと若者向けの『Lei』と『Per Lui』っていう雑誌があって、ティーンヴォーグみたいな。そこの編集長の女性に見せたら手を上げてくれて、2回くらい撮影したんですよ。そしたら彼女が新しく『VOGUE ITALIA』の編集長になることになった。
辻 エージェントを通して諭のブックを見た『VOGUE ITALIA』の誰かが、なんかやりましょうかって言ってくれたわけだね?
七種 そう、フランカ・ソザーニっていう女性で。僕らより10歳くらい年上かな。去年の暮れに突然亡くなっちゃったんだけど。僕にとってはチャンスをくれた大切な人。彼女のお姉さんはイタリアのコルソ・コモの経営者。
辻 あぁ、そのお姉さんは僕も知ってる。イタリアファッション界ですごく有名な人物だよね。フランカは『VOGUE ITALIA』が古い体制から新しいものになった時の最初の編集長だったんだよね。すごいラッキーだったね。初めて『VOGUE ITALIA』に諭の写真が使われたのは何歳くらいのとき?
七種 28歳くらいかな。その時に僕らより先輩のカメラマン、パトリック・デマルシェリエとか、ピーター・リンドバーグとかがメインでいて、たぶんスティーヴン・マイゼルとかが僕らより7歳ぐらい上とか。新しい若いカメラマンは僕と、あと一人か二人くらい。それでローテーション組んでやっていきましょうって。
辻 そこで認められて、でもいきなり表紙じゃないよね? イタリアまで行って撮ってたの?
七種 もちろん、違う。撮影はパリで撮ってて、イタリアに行くこともあったけどその頃はクチュールのショーってまだ盛んにやっていて、イタリアは生地の生産がすごいじゃない? 当時はローマでイタリアンクチュールのショーをやっていたから、パリよりメゾンがいっぱいあって。だからローマのスタジオで撮ったりはしていた。
辻 え? まさか、イタリア語もペラペラ?
七種 いや、全然。英語か、みんなフランス語もできるしね。そのローマで撮った写真が2、3号続けてクチュール特集号の表紙になった・・・。
辻 『VOGUE ITALIA』で名が出たことで仕事も増えたのかな?
七種 フランカが編集長になる以前の『VOGUE ITALIA』ってすごいクラシックだった。新しくなって業界の人がこういう雑誌を作れるんだ、と思った。斬新だった。でも、マーケットは小さい。公称部数は5万とか6万部だけど、実際は売れて3万部とか。その規模はたぶん未だに変わってないと思う。言語がイタリア語だから、イタリア語でしか読めないし。ただ、フランカが強かったのは、新しいタレントを使って、新しい風を吹き込んだ。それと、イタリアのファッションを中心とした業界をきちっとリスペクトして雑誌作りをしていたんだよね。
辻 彼女の存在、大きかったね。運命的な出会いだね。
七種 僕にとってはね。
辻 ところで、どうしてパリに渡ってきたの?
七種 日本でヘアメイクをやってて、24歳くらいになった時に、このままいくと結婚して、子供ができて、海外は旅行や仕事で行くとしても、生活するってありえないんだろうなって思った。だったら、取り敢えず海外で生活してみたいって思った。ニューヨークにも行きたかったんだけど、その頃のニューヨークは危なかった。ニューウェーブとかいろいろあったりして面白かったんだけど。だったら、ファッション好きだし、パリでいいかって。それで、節約して、短くて3ヶ月、長ければ半年くらい居れるかなっていう貯金をして一人で渡った。飛行機はアエロフロートだったね。84年だったからさ、ジョージ・オーウェルの『1984年』を買ってさ、飛行機の中で読んで落ち込んだよね。すごく暗い話で(笑)。
辻 最初からファッションに興味あったの?
七種 絵とかが好きで、でも田舎にいると ”絵なんかでメシ食えないじゃん” みたいな話になるでしょ。美大行ったって、良くて映画のポスター描きだよ、みたいな。そういう考え方の時代だった。
辻 僕のイメージでは、諭はモード系のフォトグラファーっていうイメージが強いんだけど。「VOGUE ITALIA」以外では、どんな雑誌で撮ってたの?
七種 雑誌はアメリカの『W』とか『BAZAAR』『VOGUE PARIS』、少し変わったものだと『George』っていうケネディーの息子がやってた雑誌があって、彼が亡くなってしまったから終わっちゃったんだけど。日本では今の『Harper’s BAZAAR Japan』『Them』『Numero』とか。
辻 CMの監督なんかもやってたよね? そうやってフォトグラファーとして大成功を収めたにもかかわらず、なんでギャラリーをオデオンに開けたのかな。あのままモードの写真家でどんどん行っても良かったんじゃないの? 諭が写真家から現代アートのギャラリーのオーナーになるまでの流れを少し知りたいな。興味があるんだ。
七種 どの世界も同じだと思うけど、アメリカに行くことが多い時期があって、結局マーケットはアメリカなんだよね、なんでも。結局、何事も資本的にフォローしないと続かないじゃない? ある程度回していくための数字が無くてはいけない。そうすると、ファッションの経済的な流れはアメリカ。特に、ニューヨークってエキサイティングだから、引っ越したいなと思うくらい楽しかった。でも何度も通って仕事に対する考え方が違うなって思い始めた。アメリカ的には、僕がヨーロッパで活躍しているフォトグラファーで、名前さえあればいいんだよね。僕が撮るものがどうとか、別にクリエイティブじゃなくてもいいんだってことに気づいた。それはもちろん信頼されていたということだと思うけど。彼らは、9時から17時で企画と時間の中で仕事をしてくれればいい、と言う。でも、それをやるとチームワークで仕事している意味がない。悩むこともない、行きつく目標が決まってるわけだから。それ以上に求められていない仕事も多かった。
辻 フランスのやり方はもっとのりしろがあって、悩みながらアーティスティックに進める感じだものね。
七種 そうだね。できる人、できない人はいるけど、あるコンセプトがあって、いろんな理解をする人がいて。フランスのその、のりしろやクッションみたいなところがアメリカの仕事には多くないんだよね。アメリカはすごくストレート。Take it or Leave it?(やるの? やらないの?)って。
フランスだと、やろうとは思ってるんだけど、それってどういうことを狙ってるの? とか、いろんなことが個人に絡んだクリエイティブの連鎖が有り、長いじゃない。一つのことに対して数字だけじゃなくて、いろんなことを含めて考える。それがチームワークの面白さでもある。でもアメリカは、そこに企画があって、数字があって、やる? やらない? どっちか。すごく効率的!
辻 確かに、アメリカの仕事の仕方は面白くないね。
七種 そうすると、何が目標かっていうと、ビッグになって金があって、名誉があって・・・。古い考え方かもしれないけど、自分の中に、ものをクリエイトする人は、その作ったもので判断されるべきだっていう考え方があるし、商業路線に乗るには自分自身もコミュニケーションしなきゃいけない。それ自体も僕は得意じゃなかった。そういう考え方も含めて、自分が生きていきたい場所とは違うなって気づいた。ただ単に写真とかモードの世界の中で、そういうことが本当に一番大切なことかな? っていう疑問があって。
辻 諭の中ではどの瞬間が一番クリエイティブだったわけ?
七種 それは、難しいね。ファッションとかって、時代に起きてる ”ルポルタージュの一面” だったりする。半年ごとにデザインが新調されて。今起きてること、と、未来。それを僕らが服のコレクション+スタイリスト+モデル+ヘアメイク等々を通して表現する。モデルだって長くやっている人もいるし、パッと出てきたばかりの人もいるし。
辻 今年の流行要素をブランド側から提示されて、ある種それに即して写真家は撮影をしないとならない。モデルを通して表現しなきゃいけないわけじゃない?
七種 面白いと思うのは、比較的若いモデルの子たち。彼女たちってやっぱり ”生” なんだよね。すれてない子は。すごくピュアで。もちろん、いい家庭から来る子もいるし、家庭環境の悪いところから来る子もいる。彼女たちがその中でモデルという仕事をやりながら、自分の言いたいことを表現してるんだよね。特殊なジャンルだけれども、今世の中で起きてることとか、過去からできてきたのが今現在なわけで。ファッション、スタイリスト、モデル、ヘアメイクも含め、彼らの感じていることが全てクリエーションに反映されて、それを僕らがうまくディレクションしていく。のりしろみたいな、あやふやな部分とかが一番面白かったりもする。
辻 どういうブランドをやってきたの?
七種 サンローランとか、ランコム、ディオール、それから、ゲランとか。
辻 広告だからね、難しそうだな。僕には絶対無理な世界だ。
七種 広告代理店がいて、コンセプトを考えて、そこから自分なりにどう理解してその企画をより良くさせていくかっていう。
辻 代表的な作品は?
七種 ケイト・モスが19くらいの時に出てきてイヴ・サンローランのオピウムていう広告やったり、イザベル・ロッセリーニと仕事できたりとか、そういうのは出逢いを含めて面白いよね。
辻 そういうところから受ける刺激と、自身がオーナーであり、キュレーターである現代アートのギャラリー “DA-END” から受ける刺激って全然違うんじゃない? 20年以上モードの世界にいて、どうして、そこにって思うんだよね。オデオンというギャラリーがひしめく地区で、DA-ENDっていうギャラリーを開いた。なぜ50歳になってそんな大冒険をしたのかな、って思った。大変だとは思わなかったの?
七種 受ける刺激としてはどっちも楽しく興味深い。でも、ギャラリー業って大変だっていうのは知らなかったんだよね(笑)。本当に、わからなかった。 取り敢えずクリエイティブな人たちが集まる場所があって、コミュニケーションをとって情報を交換したりとかができる場所があればいいかな、そういう場所をやりたいなって思ってね。作品をコレクションする人っていうのは共鳴する何かを感じる人たちだと思う。自分の作品に共鳴してくれる、ということは作家にとっては新しいエネルギーになるし、続けていく上でも経済的にも大事なことだと思う。我々もそういう場所を提供するのであれば、それを続けていかなければ意味がないと思ってる。人や作品、経済も含めてスムーズな流れができて、毎展覧会で心に響くものを発見できる空間になっている。
最初はポップアップギャラリーみたいにしようと思っていたけど、定期的に。自分たちがやりたいってことに共鳴してくれる作家と、共鳴してくれるお客さんの中の橋渡しみたいなことができればいいかなって思って始めたんですよ。もちろん、ファッションもアートからインスピレートされることもあるし逆もあり得る、作品自体は個人がクリエイトしたものだし。ギャラリー DA-END の作家の人たちは大きいシステムや工房みたいなのを持ってる人じゃなくて、自分の作品を自分の手で作っている人ばかり。霊性的というか精神、魂が入っている。また新しい活動としては、トラディショナルなクラフトワークとか日本の伝統工芸+デザインも紹介したいけどね。なかなか大変だけど大きい可能性はある。心に響かせたいという思いがあるよ!
辻 どのくらいの周期でエクスポジションは変わるの?
七種 2ヶ月くらい。その展覧会の売り上げでギャラリーを続けていくんだけど、なかなか難しいよ。
辻 そうだろうね。古くからの絵画の顧客がいたわけじゃないしね。
七種 ビジネスを知らなかったからできたことであるよね。知ってたらやってない。知らない強さってあるよね。
辻 ビジネス的には大変かもしれないけど、いろんな出会いがあるでしょ?
七種 僕らのやってることに共鳴してくれる人たちが集まってきてる。もちろん、作品を気に入ってもらえないと買ってはくれないけどね。とりあえず、こういう作家を集めてこういうことをやるって。今のギャラリーの流れとしてはうちは特殊だから。白い空間じゃないし、光も違うし。今までの流れは 「ホワイトキューブ」って言われる、作品を見る時に周囲の環境に影響されない空間作りをしていたわけ。
僕らのは違う、基本はCABINE DE CURIOSITEという空間。それに近いモダンアートで著名なものはアンドレ・ブルドンのキャビネ。その一部がポンピドゥーセンターに保存されてある。現代は創作した作品に区別というかジャンル分けがあったりするのだけど、僕らのギャラリーはその分別を越えた、圏外に出た作品を展示したりする。その型にはまらない展示や作品からその空気感を感じてもらっているし、それが今を生きていくことに大切だと思ってる。
辻 諭のギャラリー、驚くほどに真っ黒だもんね。全然、主流じゃないね。
七種 でも僕たちは、誰かの家に招待されて作品がかかっているような、ちょっとインティメートな空間にしたかった。ここ何十年かはギャラリーっていうのは作品をいろんな環境から外した場所、白い壁をバックに見て、コレクションしてもらうみたいなのが主流だったから・・・。
辻 ギャラリーを始めて何年目?
七種 7年目。なんとか続けられてる。もうちょっと頑張って続けていかなきゃ。フランス人のコレクショナーもいろんなウンチクがあったりするから難しいけど、でも楽しいよね。
辻 日本人アーティストも紹介したりするの?
七種 日本人も紹介したいんだけど、シッピングとかが大変だからね。小さいものとか、平たいものだったらいいんだけど。でも頑張ってなんとか方法を探って、前に言った伝統工芸+デザインの展覧会の実現が可能だと思う。面白いCABINE DE CURIOSITEになると思う。
辻 諭のギャラリーに初めて入った時、ここは美術館だなって思った。ちっちゃい美術館みたいな。それもかなりセンスのいい個人ミュージアムだ。そのセンスと斬新さは勢いを落とすことなく、7年間ずっと守られ続けてるよね。
七種 ギャラリーの考え方としては、人との巡り合い、ご縁を大切にしてる。サンジェルマンでやっていて面白いのは、変なおじいさんとかが来たりするわけ。その人たちは知識人、文人、精神医、哲学者だったりすることが多いから新しい発見も多い。そういうの、他の地区ではあまりないから。そういう一期一会が僕は嬉しい。
辻 昔そこは写真のアトリエで、壁中が写真庫になっていて、無数のネガが収められていたよね? かっこよかった。そこが急にギャラリーに変わってびっくりした覚えがあるよ。
七種 最初はコレクションしなくても見に来てもらえればそれでいい。見てくれて、何かを感じてくれればいい。入ると、最初は空間に圧倒されるけれど、作品を見始めるとただ陳列されてるだけじゃなくて、作品と対話できるようになってるんだよね。
辻 将来的にはどうしたいの?
七種 将来的にはメセナじゃないけど、今はパリでやってるだけだから、日本でもアメリカでもその他の国でもいいけど、今やってる企画展なんかをどこかのファンデーションでもいいし、美術館でもいいから、ギャラリーごと持って行って、”キャビネ DA-END” っていうのをやりたい。その土地の作家も巻き込んで少しずつ膨らんでいくのも面白いと思う。スペースを全部取らなくても、一角だけでも良くて。その方が面白いかもしれないから。ギャラリーを始めた時から気になっている日本の伝統芸術とデザインみたいなのが一体になったものなんかも扱っていこうと思ってる。竹細工とか漆でもいいんだけど、そういうのを短いスパンでもいいから定期的に紹介していこうと思ってる。やっぱり日本人だから。国を離れて初めて故郷の良さがわかったりするもんね。日本人のモノ作りには精神性が込められているよね。基本は、ご縁があればそれでいいんだけど。
辻 じゃあ、わかった。僕に個展やらせて。ヨーロッパの気候がいい6月くらいに。
七種 何やるの?(笑)うち、審査厳しいからね。売ることが目的になっちゃうと軸がぶれちゃうからダメ。やっぱり、最初の動機を忘れちゃったらいけないと思う。
辻 でもギャラリーって売るところでしょ?! 売らなきゃギャラリーじゃないじゃん!
七種 そうなんだよ。それに気づくのがちょっと遅かったの(笑)。
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posted by 辻 仁成