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フランスごはん日記「個展が好調で一安心な父ちゃん、様々な出会い、一枚の絵の前でロシア人が動かなくなった」 Posted on 2024/10/06 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、パリでの初個展、一安心できるほど好調である。
ぼくはその瞬間に出くわさなかったが、スタッフさんから、アメリカ人のご夫妻が不意に現れ、ぼくが好きな大きな作品を、ご購入された、と連絡があった。
その方は、「SEED」と名付けた、青い世界の作品を、一目ぼれしてください、即決で、購入されたのだという。
ポルトガルだったか、スペインにご自宅があって、そこに、ちょうどいい飾り付けるスペースがあるのだという。
即決というのが、嬉しかったし、スタッフさんからの情報だと、その方々が、マレの画廊街の他の個展会場をいろいろと見てまわったが、気に入ったものがなく、ぼくの個展会場に入り、地下に飾ってある「SEED」を見るなり、これだ、と決まった、というのだから、まず、嬉しい。
マレ地区の画廊街、レベルが想像以上に高くて、その中で、父ちゃんの絵を選んでいただけたこと、大変光栄で、嫁入り先が決まった子供に、よかったね、と手を合わせた。
彼らの家の、どこかの壁に、この作品がずっと飾られ、ご夫婦は、愛を紡ぐ時間の中で、その絵を見続けるのである。
SEEDととつけたのは、ぼくらに必要なものが希望の種子であること。その希望をなくさず、自分の中で、希望の大樹を育てること。世界は一つの種子からはじまり、森が広がり、緑に包まれていくことを描いている。
SEEDは1,2,3と3連作で、海、森、砂漠に種子を蒔いたあとの世界を、イメージしている。ご夫妻が購入された作品には、中央に十二使徒と思わせる賢人たちが、うっすらと浮かぶ感じで描かれていたりもするが、それは人によって幹にも見える。
また、見方によっては、海底から空を見上げているようにも、高い山の頂上にある古い都市から、宇宙を見上げているようにも見える、不思議な作品。
※階段をおりて、地下の展示ルームの真正面にある作品である。
大好きな絵だったので、静かに、ぼくは喜んでいる。いつか、ぼくはこのご夫妻と会うことになる、予感がある。
無事に引き渡される日が待ち遠しい。きっと、彼らの家の一角をあたためるその作品のイメージが浮かんで、ぼくの口許を緩める。

フランスごはん日記「個展が好調で一安心な父ちゃん、様々な出会い、一枚の絵の前でロシア人が動かなくなった」



ところで、画廊にはメトロで、通勤するように、通っている。
10月1日から、パリの路上駐車料金が一時間18ユーロ(約3000円)になったので、ばからしいから、パリ市内で車の利用は控えている。馬鹿らしい。
なので、すっかり、定期券を買って、メトロづいている、父ちゃんであった。
でも、乗り慣れないということもあるが、混んでるので、怖い。
また、次のパンデミックも近い、と言われているし、マスクをして、怪しい感じで、電車に乗っている。
で、今日は、帰りの電車で、10代の若い人がいきなり立ち上がり、
「どうぞ」
と席を譲られ、衝撃を受けた。
辻歴史における、初の、「老人決定瞬間」であった。
「俺っすか?」
と思わず日本語が飛び出した。
「俺?」
2秒、動かなくなる黒人の青年、瞬きできない父ちゃん。
マスクで顔を覆っていたから、病人と思われたですよ、先生、と長谷っちに慰められたが、そうじゃない可能性を排除できないので、この瞬間、一気に老けてしまった。
ぼくは、いつも年配に見える方に席を譲って来たのだが、この衝撃は、大きかった。
立ち直れない。老化が一気に加速しそうじゃ。
十代の青年のやさしさに、憤慨している、老害、父ちゃんであった。
あはは。

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でへへ。



ともかく、画廊に行くと、ぼくが作家とわかるのだろう。
みなさんが、近づいてきて、とにかく、意見をたくさん、いただけた。
1人の若いロシア人のマダムがいた。
その人は、ぼくの絵を心底気に入ってくださり、30分ほど、ある一枚の絵の前から、動かないのだった。
そして、しびれを切らせて、こう告げたのだ。
「私はロシア人です。あなたが描かれたこの絵は、人類の今の厳しい現状を描き、その未来を提示しています。私はこのような時代だから、この絵を買いたいが、お金がありません。でも、私はいつか、私が生きている間に、この絵と再会できると思って確信しているんです」
ぼくは黙って、訊いていた。でも、どこで?
「この絵は、大きな美術館で飾られる日が来るでしょう。その時、私は思い出し、あなたにお会いできた今日を思い出すでしょう」
ぼくは、目頭の奥に、幸福のぬくもりを覚えた。

フランスごはん日記「個展が好調で一安心な父ちゃん、様々な出会い、一枚の絵の前でロシア人が動かなくなった」

フランスごはん日記「個展が好調で一安心な父ちゃん、様々な出会い、一枚の絵の前でロシア人が動かなくなった」

フランスごはん日記「個展が好調で一安心な父ちゃん、様々な出会い、一枚の絵の前でロシア人が動かなくなった」



個展は、美術館とは違う。
絵を売るブティックなのだが、同時に、美術館の要素も少しあるのだ。
このようなロシア人の女性が、今の世界の混乱に苦しみながら、この絵の中に、なにがしかのエスポワール(希望)を持ってもらえたとするならば、父ちゃんは、描いてよかった、と思ったのだった。
この作品が、だれの所蔵になるのか、わからないが、この絵の前で多くの人が立ち止まる。ぼくは、そういう絵をこれからももっと、描いていくのだ。

フランスごはん日記「個展が好調で一安心な父ちゃん、様々な出会い、一枚の絵の前でロシア人が動かなくなった」

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つづく。

今日も読んでくれてありがとうございます。
毎日、ドラマチックな出会いがあります。面白いですね、コンサート会場での熱狂とはまるで真逆で、静かな熱狂です。絵の世界は、小説の世界に少し近いかもしれないですね。
個展は、12日までです。

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TSUJI VILLE
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