最近の若者にはピンと来ないかもしれないが、かつて喫茶店やバーの片隅にジュークボックスという機械があった。小銭を入れてボタンを押すと、レコードが回り始め、スピーカーからは当時のヒット曲が流れた。ジュークボックスは単なる音楽プレイヤーではなく、誰かが選んだ曲にはその人の気持ちや思いが込められていて、好きな人と聴いた曲、失恋の夜に慰められた曲、友人と笑い合った曲 – 流れる音楽は誰かの人生のワンシーンだった。

デジタル音楽配信が主流となり、いつでも好きな曲を聴ける今では、稼働しているジュークボックスを見かけることは稀になった。しかし、ミュージシャンのトニー・ボーウェン（Tony Bowen）は、ロンドンでジュークボックスの概念をライブで体現している。

トニーさんは、「ヒューマンジュークボックス」と名乗り、ロンドンの様々な場所で毎日のようにライブをしている。主には食事が楽しめるような広めのパブでの演奏が多いが、ギター一本で観客のリクエスト曲を次々と演奏していくユニークなスタイルだ。お客さんがトニーさんのソーシャルメディア（InstagramやFacebook）にアクセスし、ダイレクトメッセージでリクエストを送ると、メッセージはトニーさんの携帯にすぐに届き、順番に演奏されていく。
トニーさんの手元にはタブレットがあり、コードなどは簡単にチェックできるようになっているが、懐かしいものから最新の流行までリクエスト曲のほとんどがすぐに演奏され、まさにジュークボックスのような幅広いレパートリーに驚かされる。
 

 
投げ銭は、直接渡すこともネットで送ることができるが、パブではその場でビールをご馳走する人も少なくない。パブの閉店時間まで何時間も演奏し続けるトニーさん、どんどん追加されていく投げ銭ビールを飲みながら演奏していると、ほろ酔いの観客も一緒に歌ったり踊ったりし始める。いわゆるライブハウスとは一味違う、人々の日常にライブ音楽が楽しみをもたらしている素敵な空間が広がっている。おしゃべりをしている人、聴き入っている人、曲に合わせて踊っている人、自由に楽しめる空間を作っているのは、最高のエンターテイナーだ。
 

 
かつてのジュークボックスと同様に、リクエスト曲にはそれぞれの想いが込められているだろう。採用されたリクエストに聴き入るのはもちろんのこと、誰かがリクエストした懐かしい曲にその場が合唱になることもある。先日私が訪れた時は、「君の瞳に恋してる(Can’t Take My Eyes Off You)」が流れて、パブ中で「パーラッ、パーラッ、パーラッパッパッパッー」と大合唱になった。その時居合わせた人々や店の雰囲気、天気や出来事、その曲がリクエストされるのも聴くのも、偶然の重なりで生まれる楽しい時間だ。
 

 
トニーさんはとにかく多忙だ。週に4日ほどは様々な場所でヒューマンジュークボックスの演奏をしているほか、プライベートパーティーにも引っ張りだこ。この日も「明日はライブが3件あるんだよね、、、」と笑いながら話していた。シンガーソングライターとしてオリジナル曲もリリースしている彼は、イギリス最大のフェスティバル、グラストンベリーでも既に7年も演奏しているとのこと。
また、オープンマイクのオーガナイザーもしていて、毎週日曜日はリッチモンド地区にあるパブで、様々なミュージシャンが人前で演奏する機会をサポートしている。「この人に連絡してみるといいよ」「これに応募してみたら？」と他のミュージシャンにもチャンスが訪れるように気遣う姿には、彼の優しく寛容な人柄が表れていると思う。
 

 
ロンドンでの夜、典型的なローカルパブで、地元の人たちがとことん気軽にライブ音楽を楽しんでいるところに参加したければ、トニーさんのイベントに行くのは間違いない選択だろう。おいしいビール（もちろんジンもワインもノンアルもある）にライブ音楽、しかも聴き覚えのある曲、最高の組み合わせだ。