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滞仏日記「俺の妻が心配する俺のこれから」 Posted on 2024/07/09 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、フランスの夏は23時ごろまで、この時期、空が青いのだ。
息子がお金をとりにきたので、麻婆豆腐と冷やし茄子を食べさせ、あちこち探し回ってユーロ紙幣をかき集め、持たせてかえしたあと、ぽつんと独りぼっちになったので、22時くらいから、寝酒を飲み始めた、父ちゃん。
今日は、やなさんにもらった「WRITERS TEARS」(作家の涙)という父ちゃんにぴったりのアイリッシュ・ウイスキーをぐびぐびと呑んでいると、23時くらいに、
「あなた」
と声がしたので、来たな、と嬉しくなって、グラスを握りしめながら、口許を緩めてしまった。
最近、父ちゃんの物語に、出てこなかった、麗しの俺の妻、なのである。
「ちょっと、呑みすぎじゃないかしら」
とハリのある、しかし、優しい声音で言うのだった。
「まだ、それほど呑んじゃいない」
実は、これの前に、ICHIROというウイスキーが残っていたので、飲み干し、呑み足りないので、WRITERS TEARSを開封したのだが、これ、呑みやすい・・・。
「ペリエとか炭酸で割った方がよくない?」
「そうだね、たしかに、その方がいいかもしれない」
ぼくはふらふらと立ち上がり、冷蔵庫からペリエを取り出した。
「わたしもちょっと頂こうかしら」
小太りの妻は笑顔で言った。
目が霞むが、いつもの、顔がそこにあった。
目尻に小じわがあり、うっすらとだけれどちょっと大きめのシミも目立つし、ふっくらとしていて、だからか、安心感があって、たれ目で、ま、落ち着く人だ。
「どうしたの? まじまじと見ないで」
「あ、いや、なんか、嬉しくてね」
そう言うと、彼女のグラスにロックアイスをいれ、そこにWRITERS TEARSをちょっとだけ、数ミリ程度注いでから、ペリエで割った。
この人は、薄目のハイボールが好みなのだ。
ぼくは濃い目がいい。

滞仏日記「俺の妻が心配する俺のこれから」

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※ 残った麻婆豆腐で、ちびちび、やる・・・。

滞仏日記「俺の妻が心配する俺のこれから」



ああ、酔った。酔ったのがよくわかる。
「もうすぐ、日本ですよね? 引退公演を前にそんなに吞んじゃっていいの?」
「なんも、ウイスキーくらいどうってことない」
ちょっと、亭主関白なのだ。
俺の妻は、世界で唯一、ぼくが気を使わないでいい人なのである。
怒らないし、理解があるし、いつも応援をしてくれる。
ぼくが子育てで疲れたり、仕事でボロボロの時とかに、不意にやってきてくれて、心の深い穴ぼこを埋めてくれる。付き合ってくれるのだ。涙が出る。
とくに精神が安定していない時に、やって来て、寄り添ってくれる。
「美味しいわ、これ」
「だろ。やなさんがくれたんだ」
「どなた?」
「仲間だよ。数少ない仲間」
「素晴らしいわね、こういうものをくださるお友達がいて」
「最近、そいつ、転職をしたんだ。やりたい仕事を見つけたらしい」
「まあ、それはもっと素晴らしい」
「子供が二人いる。嫁さんは頭がいい。何より、いいお父さんなんだ」
「そうなのね」
聞き上手なのだ。やなさんのことを話しても意味がない。
でも、意味がないことを黙って聞いて、その人の気持ちになって、相槌を打てる俺の女房は最高である。
この人といると、気疲れしない。
何だって、言える。

滞仏日記「俺の妻が心配する俺のこれから」

※ 夏は冷やし茄子がうまい!

滞仏日記「俺の妻が心配する俺のこれから」



たまには、ぼくだって、悪口を言いたい。
いつも、言われる側だから、言わないと決めて生きてきたが、悪口の一つくらい、ないわけじゃない。
「ちぇ、ウソつきは許せないな。人をだますやつらは、地獄に落ちればいいんだ」
「・・・」
「お前もそう思うだろ」
「あなたらしくない」
「え? だって、ひどいやつらなんだ。俺をだます。コロコロ意見が変わって、詐欺師みたいな連中なんだ。俺が許可してないのに、俺の名前をつかって、もはや、犯罪みたいなことをする連中で、でも、日記にも書けない。訴えないのは、その連中への俺の情けだ」
「そうね、ウソつきはダメね。ころころ意見をかえてあなたをだまそうとする人間を赦しちゃだめ。でも、腹立てるだけ、時間の無駄じゃない?」
「ま、そうだな」
「そんな連中はどうせそんな連中だから、あなたが関わっちゃだめですよ。スタッフさんに任せて、あなたは正々堂々と青空を見上げて、未来へ突き進んでください。もったいないわ、翻弄される人生なんて」
おお、さすがに、俺の妻だ。いいことを言う。
「その通りだな。さすが、お前だ」
「かんぱい」
俺の妻が笑顔で、グラスをもちあげた。気をよくした俺もグラスを持ち上げ、かちん、とぶつけあった。いいね~。
「身体を大事にね」
と妻が言った。ぼくは頷いた。
「無理しちゃだめよ。終わりよければすべてよし、を忘れないで」
「ああ」
妻が薄れていく。俺はWRITERS TEARSをあおった。
「思う存分、思い残すことなく、最後のライブ、決めてやるのよ」
「ああ」
ぼくは目を閉じた。もう、きっと妻はいない。
でも、がんばろう、と思った。

滞仏日記「俺の妻が心配する俺のこれから」



つづく。

今日も読んでくれてありがとうございます。
いや、よく飲みました。明日から禁酒にします。トランク2個、準備完了しました。引退コンサート、思う存分にあばれてやろうと思っています。えいえいおー。



滞仏日記「俺の妻が心配する俺のこれから」

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