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滞仏日記「ご近所の人にうるさいと叱られながら、父ちゃんは息をひそめて生きている」 Posted on 2023/12/21 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、おる。上に、おる。
足音が聞こえる。ハイヒールの、トントン、と響く音が、朝から晩まで、響きわたる。
フランスの家では、玄関で靴を脱ぐという習慣が、ほぼ、ない。
ほぼ、と書いたのは、近年、とくにコロナ禍以降、ウイルスを恐れて靴を脱ぐ人が増えているという噂を聞くからだ。
しかし、昔ながらの家庭では、靴を履いたまま暮らしている模様である。
なので、上のご年配のマダムはハイヒール(といっても年配なので、5センチくらいだと思う。前にすれ違ったときに確認済み)を履いたまま一日中過ごすので、靴音が下の階にまで響き渡る。孫が来た日は、超うるさいので、お互い様。
問題は、ぼくの歌の練習なのだ。
がらんとした事務所なので、歌えば、ハイヒール音どころではなく、上でも聞こえるはずである。ノルマンディの家はそれが原因で、下の階のカイザーさんの息子さんから、怒鳴り込まれたことがあった。むっちゃ、怖かった。
前のパリのアパルトマンでも、下の階のティエリーさんに、「ちょっとうるさいです」と厳しく忠告されたことがあった。(それがご縁で親しくなったけれど・・・)
その前のアパルトマンは下の階が産婦人科クリニックで、看護師さんがやってきて、「すぐそこがセーヌ川なんだから、そこで歌ってもらえますか? 妊娠のエコー音が聞こえないでしょ」と叱られた。
父ちゃんの職業の一つは、歌手。
歌わないと、生きていけない身体なのであるが、それはご近所に多大な迷惑を及ぼしているのも、事実なのであった。困った野郎であーる。
24日のクリスマス・イブにオンライン・ライブを予定しているので、今、「うるさいですよ」と言われると、ライブが中止になることもありえる・・・、さあ、困った。
ということで、今日は、移動スタジオで練習することにしたのだ。
あはは。

滞仏日記「ご近所の人にうるさいと叱られながら、父ちゃんは息をひそめて生きている」



移動スタジオとは、父ちゃんの愛車のことである。
車の中は、ある意味、もう一つの部屋空間ということになる。
ご近所さんのことを気にしないで大いに歌うことができる場所だ。
ただ、試したことがなかった。
思いついたはいいが、今まではスタジオで練習をしていたのだけれど、24日のオンライン・ライブは弾き語りなので、バンドでのリハじゃないから、スタジオを借りるほど大げさな準備などは必要ない。
ちょっと用事があったので、オデオンまで行き、いくつかの仕事をこなしたあと、午後、ぼくはついに、移動スタジオでの練習を開始した。
マックス声を出して、のどを開く必要があった。もちろん、三四郎はお留守番であーる。
父ちゃんの車は屋根がガラス・ルーフになっているので、パリの空を見ながら歌える。
最初は、ポンヌフ橋の上に車をとめて、歌おうと思ったのだけれど、普通に駐車ができなかったので、それは断念。
ぐるぐると市中をめぐって、とある美術館前の大通り沿いに愛車をとめた父ちゃんであった。横は公園である。
前の席では歌えないので、後部座席にうつり、ギターを構えた。
人通りが少なく、側道なので、車もほぼ走ってない。まさに、声出し練習にはうってつけの場所であった。
ふふふ。

滞仏日記「ご近所の人にうるさいと叱られながら、父ちゃんは息をひそめて生きている」



まずは、アンカーマンを歌った。
ECHOES時代の曲である。
人がすれ違っていくが、まさか、車の中で、歌の練習をしているとは思わないみたいで、あんまり、聞こえないみたいであった。誰とも目が合わない。
おお、これはいいぞ。愛車スタジオ最高じゃん!
そして、ぼくはデラシネ、ジェントル・ランドなどの曲を歌った。どれもECHOESのナンバーだった。歌詞が青臭くて、歌いながら、苦笑したァ。
「日本の未来は思うつぼ、ぼくらの明日は~、タコつぼ~」
こんな歌詞もあった。若いってすごいなァ、無敵な歌詞じゃ、と苦笑が続いた。
25歳のころに作った歌を還暦過ぎたおやじが歌うことの違和感、半端ない。
でも、車の中だからこそ、こういう曲を歌いたくなったのかもしれない。
誰も気づかない。雨が降るパリのど真ん中で、父ちゃんがECHOESを歌うこの異次元感、たぶん、世界でもかなり稀な瞬間じゃないか、と思ったら、楽しくなった。

滞仏日記「ご近所の人にうるさいと叱られながら、父ちゃんは息をひそめて生きている」



ところが、30分ほど、最大ボリュームで歌っていたら、窓ガラスを、とんとん、と叩かれてしまった。
ええええ、と慌てて、窓を振り向くと、見知らぬおじさんがこちらを覗き込んでいる。すごい形相なのであーる。
こういう時、どうしていいのか、わからない。おじさん、ぼさぼさ髭をはやしていた。
周辺に家はなく、ぼくは駐車料金を払っているので、文句を言われる筋合いはない。
強気で、睨み返した。相手もにらんでくる、きゃああ、怖いわー。
やばい。勝てそうな相手ではなかった。
おじさんがギターを必死で指さしているので、演奏をやめろということだろうと思い、仕方がないので、窓をあけた。
「そのギター、どこの?」
「ヤマハ」
「日本のギターか、いいね」
なんだ、それかよ、と思った父ちゃん。
おじさんは、笑顔になり、ウインクをして去っていった。おいおいおい。ちょっと、変な人っぽかった。髭と髪の毛の境界線はなかったし、服がぼろぼろ・・・。
時計をみたら、家をでて、2時間も経っていた。三四郎のことを思い出した。
今日はここまでにしておこう、これは神様の合図だ。あの人は仙人様かもしれない
仙人様に窓をたたかれなかったら、日が暮れるまで歌っていたかもしれない。
さて、さんちゃんが待つ事務所へ戻ることにしよう。

滞仏日記「ご近所の人にうるさいと叱られながら、父ちゃんは息をひそめて生きている」

※ 「なんか、辻さん、ギターに変なテープ貼ってません?」気づかれましたか? あはは、これはダイソーで買った百均のマスキングテープなのである。こんな汚いものを貼って、名機とは、とお思いの皆さん、これには深い事情があるのじゃ。音がよくなる魔法のマスキングテープなのであーる。ヤマハの人に怒られそうだけれど、こればかりは、しゃーないのです。ライブでご確認ください。



つづく。

今日も読んでくれてありがとうございます。
ぼくの愛ギターはヤマハのNCX2000FMという名機だが、もう販売は終了している。ぼくはこれを2台持っている。その後継機も一台持っているが、2000FM以上のものはない。スペインで買ったギターも音はよかったが、ピックアップがついてないので、やはり、ライブをやるなら、ヤマハが最高なのである。
日本に一台、フランスに一台、同じものを待機させており、自分が動くだけ、なのだ。ヤマハの回し者ではない。あはは。

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