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滞仏日記「久しぶりに俺の妻と呑んだ。とくに何もないのだけれど、幸せだった」 Posted on 2023/02/26 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、仕事が終わり、三四郎を夜の散歩に連れ出した。
ぼくにくっついて生きる三四郎もまたぼくと同じく、二拠点生活をしている。
パリの公園に行くと、見回りの警察官が、リードを外している大型犬の飼い主に注意をしていた。フレンチブルのプルーストが3人を噛んで以来、公園界隈は警察の厳重監視下に置かれている。
幸運なことに三四郎は小犬なので、警官の目には入らない。
「田舎に戻ったら、またリードを外してあげるから、2,3日の辛抱だよ」
アパルトマンに帰り、三四郎の足を洗い、寝かしつけてから、冷凍庫の氷を取り出し、グラスを掴んで、ウイスキーをちびちびと呑み始めた。
長距離運転からの料理教室のリハーサルで力を出し切り、くたくたであった。
ウイスキーが身に染みる。
日本のウイスキーコレクションが充実してきたので、バーカウンターに並べてみた。
パリで日本のウイスキー、最高である。
いいウイスキーはペリエで割らないことにしている。
ロックに限る。

滞仏日記「久しぶりに俺の妻と呑んだ。とくに何もないのだけれど、幸せだった」



今夜は「響」にした。
ワインにはうるさいぼくだが、ウイスキーの細かい差に関してはあまりよくわからない。
酔うことが目的だから、何より、ほっといてくれるウイスキーが好きだ。
自分と和解するための、自分を許すためのお酒である。
「あなた」
ふふふ、来ると思っていたよーん。
ぼくの顔がにやけたが、すでに、かなり呑んでいた。
ちびちび舐めていたのだけれど、だんだん、ぐいぐい、になっていた。
あるポイントを超えると、底なしに、入る瞬間がある。
頭が攪拌され、心地よい。自分から自由になることの出来る瞬間でもある。
「お前も飲むか?」
「はい」
俺の妻にはスコットランドのアラン島でつくられている「アラン・シングル・モルト」を出した。ぼくはアメリカンクラブ椅子にふんぞり返った。
横に、チーフティンチェアがあったので、促した。
小太りで、片頬えくぼのある俺の妻が、しずみこむように腰を下ろした。目がかすんでよく見えない。でも、俺の妻は決して美人じゃないところがいい。
美人じゃないけど、楚々としている。わかるかなァ~。
ぼくが細いから、こういうしっかり安定感のある人が安心なのだ。
何より、横に妻がいると感じる、この瞬間が好きだ。
「それ、飲みやすいだろ」
「ええ、たしかに」
妻の好みがわかって嬉しい。アラン・シングル・モルトはそういうとっつきやすいやさしさと懐の深さがある。
「今日はどんなことを考えていらしたの?」

滞仏日記「久しぶりに俺の妻と呑んだ。とくに何もないのだけれど、幸せだった」



おもむろに妻が言った。ああ、とぼくは応じた。
「今日は井島のことを思い出していた」
「井島さん?」
「昔、ファイアー通りに古着屋があって、九州の若いロッカーが屯していた。井島が働いていたんだ」
渋谷の消防署の坂道をファイヤー通りと呼んでいたが、今もあるかどうかわからない。ぼくが23歳の時の記憶だから、曖昧なのだ。
なんで不意に井島のことを思い出したのかもわからない。
でも、俺の妻に、井島のことを説明した。
「ぼくより小さい男だったが、歌手だった。トランペットも吹いてたと思うけど、いつか天下を取ってやる、というのが口癖だった。気取っていて、ませていて、垢ぬけていて、センスがよくて、でも、べらんめーな喋り方で、オー、ツジ、大丈夫かオメー、そんな辛気臭い顔してて、人生に勝てるのか? ロックンロールだろよ、といつも葉っぱかけられていた」
かすむ目で妻を見た。妻はまっすぐ正面を見つめて微笑んでいた。
こっち側に片頬えくぼが出来ていた。
目じりの皺が増えたし、シミもある。
顎が二重なんだけど、そこがいい。かわいいなァ、と思う。
この人はこれでいいのだ、と思う。ぼくにはちょうどいい。
「何で井島さんのこと、思い出したの? 今も、よく会っているの?」
「いいや、40年、会ってない」
「まァ」
「でも、今日、不意に思い出した。野心のある男だった。その後、バンドはやめてスタイリストになったと噂で聞いた。今、何しているのか、わからない。でも、いい時代だった。休憩時間にみんなで渋谷公会堂まで行き、地下の食堂でカツカレーを食べるんだ。九州出身のロッカーが集まって、300円なんだけど、ブリューミーで美味かった」
俺の妻が頷いていた。渋食という食堂だった。
「ツジ、俺はよ、やるからな、天下取ってやる。覚えとけ。井島はよくそんなこと、嘯いていた。でも、今日、15区の交差点で、あの頃の井島のギラギラした目を思い出した。闘争心というか、未来しかない者の目つきだった」
ぼくはグラスの中の響を飲み干した。心臓が、ばくばくする。呼吸が荒くなった。
「飲みすぎですよ。相変わらず」
「でも、導眠剤をやめたから、体調もいいし、目覚めても身体が痛くない」
「ま、それはよかったわ」
「でも、なんで、井島のことを思い出したのかな」
「あなたの野心に火が灯ったから?」
「ああ、そうかもね」
「焚きつけられたのよ」
「なるほど」
ぼくは立ち上がり、バーコーナーまで行くと、響をもうちょっとだけグラスに注いだ。
それをぐいと呷った。俺の妻はもういない。だから、ぼくは振り返られない。
火が付きそうなくらい、かっかする。ちくしょー、俺は負けない。
ぼくは明かりを消した。
そして、静かに、部屋を出ていくのだった。

滞仏日記「久しぶりに俺の妻と呑んだ。とくに何もないのだけれど、幸せだった」



つづく。

今日も読んでくれてありがとうございます。
響のおかげで、よく眠れました。遠い記憶が不意によみがえる時、ありませんか? 今はもう、自分の人生の登場人物でもない人たちが不意に立ち上がって、迫って来ることありませんか? 限りあるこの世界で、限りない夢を追いかけている自分なのです。闘争心に火がついたので、今日も頑張って生き抜きたいと思います。

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滞仏日記「久しぶりに俺の妻と呑んだ。とくに何もないのだけれど、幸せだった」

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