JINSEI STORIES
退屈日記「妻がぼくに、お酒の量を減らしなさい、と命令をした」 Posted on 2022/11/21 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、母さんのことも心配だけれど、疲れもひどく、一度寝たけれど、すぐに起きて、ちょっと疲れがたまったのかなと思い、日曜の夜にもやっている馴染みのレストランに行ったら、雨も降っていたし、他に客は誰もおらず、ガラガラであった。
ぼくは一番奥のやはりいつものテーブル席に通され、そこでちょっと泡を舐めた。
「おひとりさまですか?」
ギャルソンさんに、訊かれたので、ハイ、と告げると、前の席に準備されていたカトラリーが撤去(?)された。
「あと、あまりお腹空いてないんだけど、今日はチーズとハムとかでもいいかい? 」
「もちろんでございます、辻様のお好きなクリームのバターとバゲットもご用意させて頂きます」
「ありがとう。ワインリストください」
お店のハウスワイン、でも、フランスワインだった、を一本頼んだ。ついでに、妻のためのグラスを用意させた。
呑み切れなければ、残ったら持って帰るつもりで、結局、ボトルの方が安くつく。ぼくはワインだと、4,5杯は軽く飲むので・・・。
チーズを齧りながら、冷えた白ワインを飲んだ。
何杯目か覚えてないけれど、疲れているので、珍しくワインで酔ってしまった。すると、目の前に、すっーと、妻が着席するのがわかった。
「あなた」
「やっぱり。迎えに来てくれたんだね、飲むかい?」
妻が心配をして迎えに来てくれたのだ。そろそろ来るな、と思っていたので、実はちょっと嬉しかった。
「困った人ですね。飲んでいいって、お医者さんの許可出ているんですか?」
「もちろんだよ」
「今日、日曜日ですよ」
「3日過ぎたら飲んでいいとお墨付き貰ってるし、消毒になるだろ」
「まぁ」
幻の妻は、微笑意ながら、ぼくが注いだ白を舐めた。
それから、母さんの話になった。
「じゃあ、恭子お母さん、回復傾向なんですね?」
「うん、明日くらいまではまだ要注意だけど、今後は回復傾向を辿るだろうって。先生から」
「・・・・」
「ただ、ナースコールも押さないで、勝手に歩き回ってるらしく、病院で、こっぴどく叱られてるみたい」
「まぁ、お母さまらしい」
「自由過ぎて困ってる。介護保険の加入を先生にすすめられたよ」
「ええ」
「どちらにしても、また再発するね。もう、年だから」
「・・・」
「あなた」
ぼくは顔を上げた。優しい顔の幻の妻であった。
ぼくは酔っていたけど、安心だった。
ぼくのことをこうやって心配してくれる人がいるんだ、と思うと、目頭が湿る。
「お疲れでしょ」
「まあね。手術もあったし、母さんの入院もあったし、いろいろとあったからね」
「お酒、減らしませんか?」
「そうしたいのはやまやまなんだけど、これが唯一の愉しみだから、奪わないでくれないか、自由がほしい」
「まぁ、お母さまと同じことおっしゃって」
ぼくらは笑いあった。
妻のワインは減らない。注いだままの状態だった。
「お酒、減らしてください。あなたに元気でいてほしい。来年、やるんでしょ?」
「ああ。やるよ」
「オランピアに向けて、身体鍛えるっておっしゃっていたじゃないですか?」
「・・・・」
「あなた、プロでしょ、もう若くないなんだから、人一倍努力しなさい」
しなさい、という命令口調にドキッとした。そろそろ、いなくなるな、と思った。
ぼくはグラスに手を伸ばしたけれど、我慢をした。もうボトルの半分以上は飲んでいる。
「わかった」
小さくうなずいて、顔を上げた。
「お酒も減らしなさい」
幻の妻がやさしい表情で微笑んでいた。
でも、滲む涙の向こう側で、うすれていった。
そして、いつしか消えてしまったのだ、いつものように・・・。
ぼくはグラスに手を伸ばし、残った白を飲み干した。
つづく。
今日も読んでくれてありがとうございます。
そうですよね、お酒の量を減らさなきゃ。疲れをとるために飲んでるけど、呑み過ぎたらもっと疲れてしまう。今日も、幻の妻よ、ありがとう。おとなしく、宿に戻って寝ることにします。