JINSEI STORIES
滞日日記「幻の妻が、父ちゃんの不安を取り去ってくれました。本当です」 Posted on 2022/11/10 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、映画の仕上げ作業が佳境に入った。
グレーディング作業終了後、スタッフと軽く夕食を食べてからぼくは宿に戻った。
少し仕事をしたが、眠れなかったので、深夜に近所のバーに顔を出した。カウンターの端っこのいつもの席に陣取った。
たまに行く店なので、マスターのHさんとは顔見知り、ご夫妻がパリに来た時に一緒に飲んだこともある。
ぼくはウイスキーを注文した。お通しは日本のチーズ、横にカカオニブが添えられてあった。おされ~。
数杯、呑んでいると、ぼくの隣の席に幻の妻がやってきた。
「あなた」
ぼくはちょっと酔っていることを認めないとならない。
かわいい妻がぼくの横のスツールにちょっとお尻を浮かせて、かわいらしく腰を掛けるところであった。
今日は肌寒いのか、肩掛けを羽織っている。
たぶん、結婚記念日の時にぼくが買ってあげたものだ。
ロングの肩掛けで、腰のあたりまで隠される・・・。長い髪は後ろで結わってあって、眼鏡をかけている。すっぴんだけど、ぼくには可愛い人だ。
こめかみの下に、小さな染みがある。これを消したい、と言うが、ぼくはそこも含めて可愛いわけだから、気持ちはわかるけれど、といつも、肩を竦めている。
「もう、遅いからお迎えにきましたよ」
「君も、一緒にいっぱいだけ、どうだい?」
「え? いいの?」
くすっと笑うと、片頬だけ、えくぼが出来るのだ。いいねー。幻の妻よ、ありがとう。
「じゃあ、いっぱいだけ、いただこうかな」
マスターを呼んだ。
「妻はあまり飲めないので、ビールがいいかな。何かこの人に面白いのあります?」
「じゃあ、ベルギーの修道院ビールとかどうです?」
マスターが妻に向かって訊いた。
幻の妻はにこっと微笑み、それ、それがいいわ、と言った。
ぼくは幸せだった。間違いなく、幸せだった。
「手術の前日、食事制限とかあるのかしら」
妻がビールを呑みながら言った。おいしい、とビールの感想も漏らしながら・・・。
「それがね、制限はないらしい。ただ、術後は数時間食べられないらしいから朝食はしっかり摂ってくれるようにって」
「そうよね。その日は一日食べられないかもしれないから、何か朝、作りましょうか?」
「え? いいの?」
「何がいいかしら。卵焼きとか味噌汁とか鮭の塩焼きとかでしょ?」
「あ、うん。それが食べたい」
ぼくは嬉しかった。全身麻酔ではないらしいが、それでも、歯茎を切開する。
出ている歯を抜くのじゃなく、埋もれている歯を抜くのは厄介です、とクリニックの先生が言った。
局部麻酔をしているにしても、音とか、振動とか、頭骨に反響するわけだし。
こういう時に、妻の存在は大きい。
「大丈夫よ、日本のお医者さん、すごいんだから、あっという間に終わりますよ」
となぐさめてくれる。
「そうかな」
「ええ、大学病院なんだから、なおさら、完璧です」
「そうだね。ちょっと気が楽になったよ」
「病院まで、わたしが一緒についていきます」
「え? あ、いや、いいよ」
「でも、心細いでしょ? 近くのカフェで終わるのを待ってます」
「いや、本当にいいから、どのくらいかかるか、わからないので」
「大丈夫。待ちたいの」
ああ、ぼくは超幸せ者であった。不安はこの時、消え去っていた。
「辻さん」
マスターのHさんが遠くでグラスを磨きながら言った。こちらを怪訝な目で・・・。
「何を一人でぶつぶつ言ってるんですか? ちょっと呑みすぎですよ。明日、映画の本編集だって、さっき言ってましたけど、もう、帰られた方がよくないですか?」
「あ、いや、妻が・・・」
と言いかけて、ぼくはぼくの隣のスツールへと視線を落とした。いない・・・。
先に帰ったのかな・・・。
「マスター、お会計をお願いします」
ぼくはちょっと酔っていたのかもしれない。幻の妻は一足先に帰ってしまったようだ。
ふらふらっとしたけれど、立ち上がり、ぼくは支払いをした。
心地の良い夜であった。
つづく。
今日も読んでくれてありがとうございます。
心細い時にこそ、身内の愛に支えられること、素敵ですねー。皆さん、普段は不平不満もあるでしょうが、こういう時にやはり、愛の本質というものはわかるんです。長く連れ添った仲良しのご夫婦とかを、遠くに見ると、微笑みが生まれ、自分のことのようにうれしくなる父ちゃんなのでした。
さ、今日もがんばろうと思います。皆さんも、無理せずがんばってください。