JINSEI STORIES
滞仏日記「ぼくはあまり期待せずにいく。どんな時も自力で解決を目指す」 Posted on 2022/10/20
某月某日、ついに博多入りした。夏の撮影以来、約2か月ぶりとなる。
前回は、コロナ感染大拡大中であった。その時、博多でコロナが猛威を振るっていたのである。
安全をとって、夏の撮影を一時延期にしたのだった。
この映画はずっと感染症との戦いだった。時代がそういう時代なのだから、しょうがないだろう。
コロナ禍もやっと2か月前と比べれば落ち着いてきた。これで順調に撮影が出来るはずである。
今回は23日から3日間だけ中洲周辺で撮影があり、順調にいけば25日にクランクアップとなる。
でも、ぼくは冷静だ。この映画は最初からさまざまな問題でつまづき、「もうだめだ」と思ったことは1000回を下らない。なので楽観的にはなることができない。
しかし、この映画の灯は消えなかった。消えかかっては再び輝きだし、を何度も何度も繰り返してきた。なぜだろう・・・。
その都度、監督として決断しないとならないことが無限にあり、孤独な戦いでもあった。
クランクインした時のスタッフはもう誰も残っていない。
当時のカメラマンも照明も美術もみんないなくなった。
それは彼らのせいではない。でも、この映画はぼくのもとに戻ってきた。
「真夜中のこども」というタイトルは変更になり、「中洲のこども」となった。
主役の少年(蓮司役)も新しい子(最初の子の弟)にかわった。
児童福祉法の問題で、子役の夜の撮影が認められていないので、「真夜中」から「中洲」になったが、原作「真夜中のこども」の精神は受け継がれている。※最近、子役の夜の撮影時間が伸びた、という噂もあり・・・。
ま、映画は水物だから、完成するまで何とも言えない。
だからぼくはこれ以上一喜一憂しないために、期待をせず、淡々と博多入りした。
ぼくを出迎えたのは、はじめてお会いするプロデューサーさんが一人であった。
「はじめまして、やっと会えたね」
冗談も思わず出てしまう。でも、少しずつ、少しずつこうやって新しい方々が加わることでこの作品は生きながらえてきた。不思議なものである。
「真夜中のこども」に参加したスタッフにも、いつか、笑顔が戻ることをぼくは希望している。そのためにもぼくは頑張るのだ。完成しなければみんなが悲しい想いをしてしまう。私利私欲よりも、まず、映画を完成させるために一致団結しないとならない。
誰も責めるつもりはない。ただただ、この作品が完成することが第一義なのである。
それが映画監督としてのぼくの役目だ。
長い道のりであった。
※ 富士山?
福岡空港でぼくを迎えてくれたプロデューサーさんに連れられて、ぼくは中洲へと向かった。見慣れた風景であった。
きっと、中洲の路地のことなら、ぼくが一番詳しいのじゃないか、というくらい、今は、隅々、よく知っている。
頭の中に中洲周辺のロードマップが出来上がっている。原作を書くためにぼくは2010年ごろから、中洲で取材を開始しているのだから、当然であろう。
実に10年の歳月が流れている。博多祇園山笠集団山見せの「台上がり」も務めさせていただいた経験もある。
ぼくは昔日を振り払うように、ビールをあおった。
「響(ひびき)」役の俳優、村井良大君が博多入りするので、彼と役柄について話し合う必要がある。
カメラマンの大ちゃんと残りのシーンの撮影方法について相談し、助監督のてっちゃんとは撮影手順やロケ地の確認をする。
とくに6歳の新人をどうやって導くか、これが重要だ。
録音の地福さんのスタジオで22日にはアフレコが行われる。
美術の中島さんと「中洲交番」の建て込み具合について意見交換しないとならない。
衣装、ヘアメイクさん(気管支炎で苦しんでいる時に励ましのメッセージを頂きました、ありがとう)、制作部、俳優部(役者さんたちのことを、映画では俳優部と呼ぶ)、各セクションとさらに細かなやり取りが待っている。髪型をどうするか、その場面の衣装、小物、をどうするか、などなど・・・。
監督の仕事は幅広い。
小説は自分の頭の中で構築できるが、映画は大勢の力を借りて映像化しないとならないのだ。まるで神様のような仕事量ではないか・・・。
これから、忙しくなる・・・。朗報としては、ぼくの体調が現在、万全ということか・・・。
※ やばい、空弁、なんというネーミングだろう・・・。羽田第一ターミナルで・・・。
つづく。
今日も読んでくれてありがとうございます。
とりあえず、中洲に入ったので、ほっとしました。博多、福岡の皆さん、どうぞ、よろしくお願いします。この作品は中洲の方々の人情が戸籍のない少年を支えると映画になります。子供が大好きな父ちゃんが監督をするこの作品、完成をお楽しみに・・・。