JINSEI STORIES
退屈日記「永遠のお別れは、オルヴォアではなく、アデューなのだ」 Posted on 2022/10/03 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、早朝、前のアパルトマンに出向き、不動産屋のアンヌ・マリーさんとエタ・ドゥ・リュー(立会い)を行った。
借りた時と同じ状況で物件をかえさないとならないのだ。
この滞在期間、4年間のあいだに、水漏れが5回もあって、天井や壁が崩落していても、エタ・ドゥ・リューはある。
何をするかというと、修繕箇所があるかどうかのチェック、破損個所があればその修繕費は誰が持つかなどの話し合い、そして、預かっていた鍵の返却である。
アンヌ・マリーは不動産屋だけど、ここを借りた時から、仲よくなり、何度かお茶をした仲で、もはや、友だちなのである。なので、話は早かった。
「この穴だけど、どうしたの?」
「あ、これ、どうしたんやろ」
「ああ、じゃあ、いいわ。見なかったことにする」
そんな、エタ・ドウ・リュー、聞いたことがない。笑。
「この壁にビスが刺さってるけど」
「あ、それ掃除機をひっかけるのにあけた」
「しょうがないね、掃除機じゃ。見なかったことにする」
「この床にぼこっと穴があいているけど」
「あ、それ、三四郎が齧った」
「まあ、さすがにこれはまずいわね。弁償しないとならないけど、ちょっと待って」
そういうと、アンヌ・マリーはカバンから小型の缶を取り出した。ペンキであった。
「これ、塗っとく?」
「いいの? でも、刷毛がない」
「蓋を外して、蓋の裏に刷毛がついてるのよ。これはテスト用のペンキだから」
「わざわざ持ってきてくれたの?」
「あたぼうよ」
ということで、三四郎が破壊した玄関周りの壁を二人で塗って、修繕箇所ゼロとなった。
ぼくは書類にサインをし、鍵を全部、アンヌ・マリーに渡したのだった。
もつべきものは友だちである。
「だって、あなたはコロナの期間、水漏れもあり、漏電もあり、大変な思いをしたんだから、当然です。大家はいい人だから、大丈夫よ。それに、ここ、古いし」
「そうだね。ありがとう」
「いいのよ。ところで新しいアパルトマンはどう?」
「うん、基本は田舎暮らしだから、パリは月の三分の一って感じなんで、寝るだけ」
「そっか。田舎はいいわね。パリは空気が悪くて」
そこで、ぼくは思い出したかのように咳き込んでみせた。
「おかげで、気管支炎になった。この足で田舎に行くんだよ。海の傍だから空気が新鮮なんだ」
「引っ越したばかりなのに?」
「体調を完全に戻してからじゃないと、荷物の整理も出来ないじゃないか。肺がちょっとおかしいんだよ」
「そうね、いい空気を吸って、まずは身体直そうか」
ぼくは離婚後、友だちの垣根を取っ払った。
それまでは用心深かったけれど、一人になってから友だちこそがぼくの財産になった。
短い人生なのに、敵対していてもしょうがないし、孤立はよくない、と思ったからだ。
オープンマインドになって救われるのは、こうやって、友だちがぼくをサポートしてくれることである。
何気ない時に、孤独じゃないことを教えてくれるのも友だちだった。
アンヌ・マリーはべったり会う友だちじゃないけど、ぼくのコンサートにも来てくれた。それは、もう、立派な友だちだと思う。
どこかで、垣根を取っ払うのだ。
そうすると、社会の中の自分の居場所が広くなる。
三四郎は古いアパルトマンを走り回っていた。
ぼくとアンヌ・マリーは楽しそうな子犬を眺めた。
「ひとなり、次のライブはいつ?」
「来年」
「どこで?」
「まだ、分からないけど、オランピア劇場でやりたいんだ」
「え? マジ? それはすごい。ほんと? あんなところで、可能なの?」
「まだ、何とも言えない。可能とは言わない。でも、不可能じゃないと思ってる」
ぼくは言いふらす。自分を追い込む。嘘をついているわけじゃない。
アンヌ・マリーが、決まったら必ず行くね、と約束してくれた。
ぼくは、自分が怖かった。咳き込みそうになったので、我慢をした。
「四年間、本当に、ありがとう」
ぼくはこのアパルトマンに向けて言ったつもりだった。
「いいえ、どういたしまして」
アパルトマンのかわりにアンヌ・マリーが答えてくれた。
「アデュー(さようなら)」
とぼくは告げた。このフランス語ははじめて使った。
永遠の別れを告げる時に使う言葉であった。
つづく。
今日も読んでくれてありがとうございました。
ということで、古いアパルトマンの鍵を全部、アンヌ・マリーに返却したので、そこはもうぼくの家ではなくなりました。階段を下りていると、上からマニャールさんご夫妻がおりてきて、「行くのかい」と言いました。ぼくは彼らと握手をして、お世話になりました、と笑顔で言ったのです。厳しいコロナ禍、三度のロックダウンを共に励ましあって乗り越えたご近所さんたちにも、感謝です。ジェローム、マリー、ティエリー、アリクシス、オラジオ、フィリピン、ローズマリー、ロール、シルヴァン、クラウス、ヨニ、みんな、ありがとう。さようなら。