JINSEI STORIES
滞仏日記「またしても、ぼくは地獄を見た。昨日田舎に行き、今、パリにいる地獄」 Posted on 2022/09/02 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、こんなことが起こるとは夢にも思わなかった。
24時間前、ぼくは「皆さん、田舎に向かうよ、やっと小さなバカンスがとれるよ、三四郎と海に行けるんだ」とこの紙面でご報告した。
夜に田舎の海に着き、三四郎と遊び、休みなくこの暑い夏を駆け抜けた疲れを癒したのもつかの間、今日、昼前に、銀行の担当さんから電話があった。
「銀行保証の書類に不備があったので、書き直してほしい」というのである。
日記を遡って貰いたい。新しいアパルトマンの大家に、「作家やアーティストには物件を貸せない」と言われ、その後、交渉を続け、二年間分の銀行保証(24か月分の家賃を銀行に、ブロックされる)をやることで、ご納得を頂いた。
銀行側にとっては、それは高額貯金になるから、悪い話ではない。
物件を借りるために、2年間分の家賃をブロックというのは、20年間、パリで暮らすけれど、初めての経験(不動産屋も驚いていたの)である。それでも借りたい、好物件だったので、涙をのんだ。
6月30日に、銀行に出向き、膨大な書類にサインをした。
数百字の手書きの宣誓文を三回書かないとならない。気が遠くなるようなサインなのである。
「7月4日までいるので、不備があったら、連絡ください」
と担当さんに言い残し、その場で担当さんも不備がないかチェックをした上で、問題ない、となり、ぼくは日本へ向かった。
夏休みが終わり、二か月が過ぎ、不動産屋から「銀行保証、どうなっているの?」と催促のメッセージが来て、ぼくは銀行の担当さんに確認、「夏休みで遅れている」という返事を頂いたところであった。
なので、その件を不動産屋に伝え、ぼくは数日間の夏休みに入った。
そしたら、今日、「書類に不備がある、サインを書き直しさないとならない」と連絡があったのだ。
ええええ、どんな不備????
※、朝、三四郎は海を喜んでいた。このあと、地獄が・・・
「あのですね、今、田舎にいるんですよ」
「申し訳ありません。サインに不備がありまして、そこを直さないと銀行保証がおりません」
「でも、6月30日に、問題ないとなりましたよね?」
「お気持ちはわかりますが、来店願えますか?」
ということで、ぼくは感情が乱れたのだけど、三四郎を抱きかかえ、まだ、十数時間しか経ってない田舎をあとにする・・・。これは人生の修行なのだ、と自分に言い聞かせて。
だから、なんで、あの時に、ちゃんと確認しなかったのだろう、と思いながら、ハンドルを握りしめた。
同時に、安全運転で行け、と自分に言い続けた。助手席の三四郎は疲れ果ててぐったりしていた。ぼくが事故をおこしたら、この子も・・・。
銀行に到着をした。
「何が問題だったのですか?」
と訊くと、膨大な文字の中で、一字、文字が間違えている、というのである。aとiが逆、みたいな間違い。それで、全部を書き直すことになった。
一枚だけ直すのじゃなく、全部、三枚とも書き直してほしい、と言われた。なんで?
文句を言ってる暇もないので、ぼくは黙々と書き直した。ディレクターがやってきて、本当に申し訳ない、大至急やらせますから、と謝罪した。
「大丈夫ですよ。でも、急いでください。不動産屋よりも、大家さんが気を損ねたら、もう、アウトです。古いアパルトマンも解約手続きをしているので、ぼくは行くところがなくなります」
サインが終わり、ぼくは家に一度戻った。とりあえず、三四郎があまりにぐったりしていたから、休ませるために・・・。すまない、サンシー。
家に帰り、ベッドに倒れこんだ父ちゃん・・・。
新しい不動産屋から催促のメールが数件、届いていた。無視・・・。ぼくのせいじゃない。
田舎に戻るのは明日にしようかな、と思っていると、電話が鳴った。あ、銀行からだ!
「はい」
「大変、申し訳ない連絡です・・・」
銀行の担当さんが暗い声で言った。
な、な、な、なにがあったと?
※ 海から数時間後、ぼくの目の前には、パリの光景が・・・。4
「あの、書かれた文字の上からちょっと二重に書き直した箇所がありましたですよね。(ん? 思い出せなかった。そんなのあったかな?)担当部署からダメだということで、やり直しを命じられました」
ぼくは真っ白になった。あ、あなた、確認したじゃーん・・・。
「銀行に来ていただけますか?」
「いや、そんなの、おかしいでしょ? どんないじめですか? ぼく、6月30日に書類を渡して、これでOKとその場で言われて、2か月もたって、今頃、やっと夏休みがとれた次の日にパリまで戻って、ちゃんと文句も言わず、車を飛ばして、そちらに伺い、ええと、確かに、字は汚いけど、でも、OKと言われたから、戻ったのに・・・。犬がかわいそうです」
「お気持ちはお察しします」
ぼくは、奥歯が折れそうになった。
「うちの近くのカフェまで来てもらえないですか?」
「ちょっと待ってください」
上司とやり取りをしてる、・・・
「伺います。どちらにいけばよろしいでしょう?」
「モジャ男のカフェがあります」
ぼくは三四郎と毎朝行く、カフェのアドレスを送った。怒っちゃいけない。これは、字が汚い、ぼくにも責任がある。落ち着け、ヒトナリ、人生とはそういうものだ。
30分後、ぼくがカフェに行くと、一番奥の席に、担当さんが座っていた。
ぼくは、黙々と書類に目を通した。
「わたしも一緒に確認をします」
担当さんがぐっと覗き込んでくる。見られているので、ものすごい圧力・・・。
あああ、すると、いきなりのミス。
「ああ!」
「あ、ダメですか? これ、点? 記号? どっち?」
※ こういう記号がいっぱい、仏語恐怖症になった父ちゃん・・・。
フランス語は、文字の上に記号がついている。これを「綴り字記号」というのであーる。代表的なものは以下になる。
「é 」 これは、accent aigu(アクサン・テギュ)
「à,è,ù 」こっちは、accent grave(アクサン・グラーヴ)
「â,î,û,ê,ô」なんと accent circonflexe(アクサン・スィルコンフレックス)
「ï ,ü,ë」まだまだあるぞー、 tréma(トレマ)
「ç」 こんなのもあったァ、cédille(セディーユ)
「あ、これ、どっちですか? 点?」
「ああ、それ、私が書き間違えました。点じゃなく・・・」
「えええ、あんたが、間違えたんか~い、マジか」
ということで、担当さんが大きく書いてくれた手書きの紙を見ながら移し書きしていていたのだけど、その方も点なのか、綴り字記号なのか、わからないのがあり、いきなりのやり直し、それが、2,3回続いた。
ギャルソンのモジャ男にちょっと事情を耳打ちしたら、
「フランス人だって、めっちゃ字が汚いし、ほぼ読めないのに、なんで、君がこんな受験生みたいなことさせられるんだろうね」
と笑われた。いや、ぼく、字が汚い。
日本語も読めないと、よく編集者さんとか生徒とかに笑われるから、仏語はなおさら、やばいんだよね。
宣誓文面は数百字も書かないとならないので、細かく、見事に、ミスるのである。Eurosのuがvに見えたり、centのnがmに見えたり。
「あ、これ、nですよね」
「辻さん、ちょっと頑張ってnになるかやってみてください」
えええ、出来るかな~。工夫をするのだけど、うまくごまかせない。担当さん、うーん、とうなりだした。どひゃ・・・
ということで、3枚必要だけど、担当部署の人にダメと言われるといけないので、5枚の書類に宣誓文面をコピーし、サインをした父ちゃん、もう、マジ、死にそうであった。
もしかしたら、この遅延のせいで、ぼくは新しいアパルトマンの大家さんに、「こんなに遅い作家には貸せない。やっぱり、作家とかアーティストには物件貸すもんじゃない」と言われるのじゃないか、と想像し、今日は眠れそうにない・・・。
田舎には、疲れたから、明日、戻ることにします。
つづく。
ということで読んでくれて、ありがとう。
特に、言うべきことはありません。字が汚いぼくのせいです。銀行の担当さんには逆に申し訳ないことをした、と生きてきた作家人生を反省。無事に、銀行保証がおりることを祈って、引っ越しまで一月きって、不安な日々にいる父ちゃんなのでありま~す。
さて、そんな父ちゃんの小説教室、第二弾を、9月24日(土)に開催いたします。明日くらいには、詳細を報告いたしますので、予定にいれといてください。今回の課題のテーマは「食べるもの」「食について」の小説です。「一杯の掛け蕎麦」のような食べることをモチーフにした掌編小説、もしくは長編の冒頭を、原稿用紙10枚以内で。締め切りは9月20日。書き始めてくださいませ。