JINSEI STORIES
滞仏日記「息子が一人暮らしをするアパルトマンを見に行ってきたの巻」 Posted on 2022/08/27 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、今日は息子と彼が月曜日から一人ぐらいをするアパルトマンを見に行ってきた。
まずは不動産屋に鍵を貰いに行った。
自分も大学の時は父親に付き添われて、アパートを見に行った。その時のことをちょっと思い出した。
豪徳寺という町のおしゃれな1DKのアパートだった。
誰がどういう経緯でそのアパートを見つけたのか、もう、思い出せない。ただ、そこの大家さんの奥さんがぼくらを出迎えてくれた。そして、ぼくに向かって、
「坊ちゃん。楽しい学生生活をここで過ごしてくださいね」
と言った。
坊ちゃんかァ、夏目漱石みたいだな、と思った。
その時、父さんとぼくの二人だった。もう、大昔のことなので、どうやって家具を入れたのか、どんな家具の配置だったか、どうやって電気を開いたのか、どうやって電話をひいたのか、細かなところは一切思い出せない。
息子が、赤いドアの前で、ぼくを振り返った。
「ここだよ」
アベニュー大通りの街路樹の木漏れ日が息子の足元に美しい模様を描いていた。これは記憶しておきたい、と思って写真を撮影した。
「ちょっと、面倒くさいんだ。中庭を通過して、階段をあがり、また、ぐるっと大通り側まで戻らないとならない」
屋根裏部屋(フランスの学生たちは、だいたい屋根裏部屋を借りる。6階や7階まで階段でのぼらないとならないから、その分安い)ではなかった。フランス式の2階(日本だと3階)であった。階段はのぼるけど、18歳には楽勝・・・。足取りも軽い。
光りの差し込む、明るい部屋だった。
ただ、建物は古く、決してキレイではなかった。しかし、思ったよりもうんと広い。
屋根裏部屋は、トイレも風呂も共同で、一部屋と相場が決まっていたのだけど、息子のアパルトマンはトイレもシャワールームもキッチンも付いていて、小さいけど、二部屋あった。
カップルの家族とか、小さなお子さんのいる家族でも住めそうな広さである。
「えええ、広いじゃん。何、この贅沢」
「でも、そこの不動産屋では一番安かった」
ぼくらは、クスっと笑いあった。
そこに、十斗の友人のトマ君が登場・・・。
「こんにちは」
「あ、トマは建築家志望だから、家具をどう配置するか、考えてくれるんだ」
「ほー、ありがとう」
「もうすぐ、ウイリアムとアレクサンドルも来るよ」
「全員集合だね」
ぼくらは笑いあった。
ここが、この子の出発地点になるのか、と思うと、不意に感動が押し寄せた。涙もろい、父ちゃんなのである。ぐぐぐ・・・。
「ここに洗濯機置くんだろうね。で、キッチンの端っこに冷蔵庫かな」
小さなキッチンが付いている。
「洗濯機、置くなら、排水溝がないとダメだけど、ある?」
「ええと、これかな」
「あれ、料理するガス台とかないじゃん」
「あ、本当だ」
ぼくらはキッチンの前で唖然となった。
「電気屋で二つ口の電気コンロを買わないとなりませんね」
とトマが言った。
「買わないとならないのは、小型の洗濯機、縦長の冷蔵庫、電子レンジ、そして、電気コンロだね」
いろいろ買いそろえないとならないことがたくさんあった。ぼくも一人暮らしを始めた頃、父さんに買ってもらったのだろう。世話になったところだけ、記憶していない、ダメな息子であった。
「パパ、あとで、トマたちと電気屋に行って、チェックしてくる」
「オッケー。メジャーで測って、そこに収められる奴を見つけて、品番とかメモして、あとで、パパがネットで注文をして、ここに届けてもらおう」
嬉しそうな十斗の横顔であった。
微笑みながら、トマと家具の配置などを話し合っているその姿に和んだ。ぼくは三四郎と先に家に戻ることにした。
「みんなに、よろしく。じゃあ、一足先に帰る。そこのアジア食材店を覗いてくる」
「うん、ぼくらもあとでこの辺、散策してみる」
ひとまず、安心をした。ふり返ると、三四郎が、窓枠から、大通りを眺めていた。風が吹くと、木々の葉が揺れて、木漏れ日がここにも優しく差し込んでいた。
レストランやカフェがいっぱいあって、大きなスーパーもいくつかあって、大学生がいっぱい暮らしていて、なんだか、世界がこんなに大変なのに、前途洋々な船出が、おかしかった。そうはうまくいかないだろうけど、ま、今はこれでいい。
入学はそれほど難しくないのが、フランスの大学なのである。
大事なことは、一生懸命勉強をして、卒業をすること。
それが息子の次の目標になる。
ともかく、ぼくは息子の船出を見送ることが出来た、満足であった。
つづく。
ということで、今日も読んでくれて、ありがとうさまです。
帰りにバカでかいアジアスーパーで麻婆豆腐の材料を買って帰った父ちゃんでした。