PANORAMA STORIES
夏休み特別エッセイ「ヒトナリ少年の思い出・再会編」 Posted on 2022/08/19 辻 仁成 作家 パリ
先日母校の函館西高等学校で講演会のようなものをした。講演と言っても、話すより歌うほうが多かったから、ほとんどコンサートと言った方がいいようなものだった。
講演会が終わり外に出ると、二人の女性が僕を待っていた。一人は僕が高校の時に大変お世話になった先輩の直子さんだった。そしてもう一人、直子さんの横におとなしそうに佇んでいる女性がいた。大変綺麗な方だったが、僕の知らない人だった。
「辻君、元気だった?」
直子さんとは十年ぶりの再会になる。顔を出すからという連絡は受けていたので心の準備はできていたけれど、やはり昔の友達に会うのは心が揺さぶられるものだ。今はお子さんがいらっしゃるとのことだったが、十数年も経っているとは思えないほどちっとも変わってはいなかった。高校時代は「姐御、姐御」と随分慕った方であった。
「ねぇ、彼女のこと覚えている?」
一通り挨拶がすむと、直子さんは隣にいた美女の方に目配せした。
全く見覚えがなかった。それでも、覚えている? と聞かれて、覚えがない、というのは失礼になるので、
「ええと、なんとなく覚えてはいるんですけど、どちらさまでしたっけ」
と惚けてしまった。次の瞬間に直子さんのこぶしが僕の肩をどついた。
「あんたねぇ、忘れたなんて言わせないわよ」
まるで僕がその人をかつて騙し、散々傷つけたような口ぶりだった。僕はいきなりそんなことを言われたので、うろたえてしまった。記憶の糸を辿ってみるが、中々思い出せない。マネージャーをしている弟が、そんな僕を見て、巧く場を取り繕ってくれた。
「まあまあ、昔のことはゆっくり思い出すのが一番。どうです、再会を祝して、みんなで豚カツでも喰いに行きませんか?」
どうして再会を祝して豚カツなのか、僕には分からなかったが、僕たちはとりあえず弟の言う通り豚カツを食べに行った。豚カツ屋に着くまでの間も、僕はずっと彼女のことを思い出そうとしたのだが、結局思い出すことはできなかった。豚カツ屋で弟は僕の足をつついて、本当に覚えていないのかよ、と囁くのだが、僕は何度顔を見ても思い出せない。いつまでもそんな状態で誤魔化し続けるわけにもいかず、僕は腹を決めて正直に謝ることにした。
「すいません。もう一つ思い出すことができないのですが……」
その女性の顔が曇る。怒っているようでもあり、泣きだしそうでもある。やばい。すると直子さんが、しようがないわね、と助け船を出してくれた。
直子さんが言うには、彼女は僕の一級上の先輩で、Fさんと言われるのだが、どうも僕が当時恋い焦がれていた先輩だったらしいのである。僕はいつも直子さんを捕まえてはFさんのことをあれこれ聞いていたのだ。しかしFさんにはスポーツマンの彼がいて、年下の僕には高嶺の花であった。そんなある日、僕が高校三年生の時のことだが、たまたま東京の大学から帰郷していたFさんを駅前で見つけて、僕はなんと彼女に声をかけてしまうのだった。つまりナンパしたのだ。そこまで話を聞いて僕の脳裏に薄日が差した。
「おお、あの時の」
いいかげんな話だが、僕の頭の中にむくむくとFさんの思い出が蘇ってきたのである。しかし、やっと僕が思い出した時はもう遅かった。当たり前の話だが、すっかり彼女は怒っていたのである。ナンパされた私が覚えていて、ナンパした辻君が忘れるなんて失礼ね。そう言ったわけではないが、顔にはそんなふうなことが書いてあった。
「とにかく、思い出して良かった。さあ、みんなで乾杯しましょう」
機転のきく弟がまたまたその場を巧く取り繕って、場は和やかな雰囲気へと戻っていくのだった。
彼女の話によると、ナンパしたはいいが、僕が彼女に対して交際を求めたわけでもなく、喫茶店に行くと、一人でぺらぺら自分の未来について喋りだしたのだそうだ。僕は作家になりたいし、ミュージシャンにもなりたいし、できれば映画監督にも……云々と。彼女は呆れながらも、僕の話を聞いてくださったのである。
そう言えば君は凄く生意気だったもんね、と彼女は当時を振り返りながら言った。相当変な高校生だったことは間違いない。インパクトだけは誰にも負けない自信があったものだ。それにしても、本屋で偶然見つけた「汢仁成」の名前に覚えがあったというのだからFさんも凄い記憶力の持ち主である。さすが僕が憧れただけの女性だ。
十数年も前のしかもほんの一瞬の出会いであったにもかかわらず、ずっと覚えてもらえていたことに、僕は恐縮しながらも、なんとも言えない感激を持つことができた。
調子のいい話だが、今はもうすっかり学生だった頃の彼女を思い出すことができる。直子さんにはまた叱られそうだが、学校の廊下をブルーの夏服を着て歩いているFさんの姿が、目をつぶればはっきりと浮かんでくるのだ。
再会は素晴らしい。彼女は僕の記憶の中で永遠になった。
Posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家。パリ在住。1989年に「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞、1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野にも幅広く活動。Design Stories主宰。