JINSEI STORIES
滞仏日記「目の前で、不意に起こった大惨事!わや、呆気にとられてた父ちゃん」 Posted on 2022/07/02 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、三四郎がいなくなり、息子もいない。
知らないけれど、息子君、大学に合格してから、ずっと遊び歩いている。ま、もう大人だから、それに頑張って来たわけだから、とやかく言えない。
昼過ぎに息子が起きてきて、
「今日、ごはんいらない」
と言った。
「行きたくないんだけど、友だちの田舎の家でクラスメイトが集まって、みんなで一晩あかすことになった」
「田舎って、どこ?」
「フォンテンブロー」
「そうかよ、よかったじゃんかよ」
まじかよ、今夜、一人じゃん。寂しィ・・・。
世話をする人間や子犬がいないだけで、ここまで不安になる父ちゃんなのであった。
三四郎がいなくなり、この夏いっぱい会えない上に、息子とも同じくずっと会えないまま、ぼくは日本で孤独に仕事に明け暮れないとならない。
めっちゃ、精神不安かもしれない。
ぼくは、みかけによらず、(?)世話好きなのだ。
ごはんを作ったり、買い物したり、嫌だけど掃除したりするのが好きなのだ。好きで好きでしょうがないのである。
誰かのめんどうをみるのが好きすぎて、嫌われるタイプなのであーる。
あ、もしかしたら、こうなることがわかっていて、三四郎を飼うことにしたのかもしれない。三四郎、すまない・・・。
しかし、世話好きな人は幸せなのだ。世話できる相手がいるかぎり、手持無沙汰にならないし、その人のこと考えることが出来る。ぼくがもしも、母ちゃんだったら、世界一のスーパー母ちゃんになっていたことだろう。
想像しただけで、笑える・・・ふふふ。
三四郎という家族がぼくの生きる歯車になりつつあっての、ここにきての日本長期出張、これは、きつい。出来ることなら、フランスに残りたかったが、今回ばかりはそうもいかない事態なのであった。
いやだ、いやだ、ごはんを作りたい。
でも、ごはんって、そこに食べてくれる相手がいてこその仕事なのだから、喜んでくれる相手のいない料理くらい暗いものはない、あはは、洒落。
じゃあ、仕事に向かえばいいじゃないか? ま、そうなんだけど、仕事も、家族を支えるからこそ頑張れることができるのであーる。
SMSが飛び込んだ。ブリュノからであった。
「やあ、ムッシュ。ちょっと渡したいものがある、モジャ男のカフェの前で30分後に」
ブリュノはアフリカ人で、マリ国の出身だったと思う。
うちの地区にある元貴族の豪邸の管理人をしている。なぜか知らないけれど、面倒見のいい人で、よくコーヒーやクロワッサンをご馳走してくれる。
ぼくは彼に何もしてないのに、よくこうやってご馳走してくれるのだ。三四郎も懐いていて、ブリュノの顔をぺろぺろ舐める。
「ムッシュ、サンシーはぼくの甥っ子なんだ」
訊き間違えたかな、と思って首を傾げていると、
「ほら、同じ黒だからね」
と物凄いジョークを飛ばして、ゲラゲラと笑うような豪快な人だ。
仏語はマリ訛りで、そこがまたすごく味がある。見た感じ、ブルースマンのような人で、かっこいい。
何を渡したいのだろうと思って、モジャの店の前までいくと、長身のブリュノがキレイな袋を持って立っていた。
「日本に行くんなら、おかあさんに、これをあげてよ」
「なに?」
「赤ワインだ。悪くないよ」
そういうと、それを見せてくれた。高級そうなワインである。
「いや、こんなすごいの、貰えないですよ、いきなり」
「日本の家族は待っているんだよ。三年ぶりにお母さんに会うんだろ、お土産が必要じゃないか。このワインはいいワインだよ」
と、その次の瞬間、腰を抜かすような出来事が起こった。まず、ばしゃーん、と大きな音が一帯に響き渡った。
袋の底が抜けて、ワインが歩道に落下し、大きな音をたてて粉々に割れてしまったのだ。
わあ、と通りを行く人たちが声を張り上げた。
あっけにとられて立ちすくむブリュノおじさん。
粉々になったボトル、中から溢れ出る赤ワイン・・・。歩道が真っ赤に染まった。すべてが一瞬の出来事であった。
「せぱがーぶ。(たいしたことないよ)」
ブリュノさんはそう口の中で、小さく、呟いた。
となりのイタリア人レストランの店員やシェフたちが走って出てきて、なんてこった、と言いながら、片付けをはじめた。
「せぱがーぶ」
ぜんぜん、大丈夫じゃない。ブリュノは足元を見つめて繰り返した。何歳なんだろう?もう、そろそろ仕事を辞めないとならない年齢なんだ、と前に語っていた。
「せぱがーぶ」
凄いことになった。赤く染まった歩道に散乱するガラスをブリュノは足で蹴って、側道におとした。イタリア人たちがそれを手伝った。
「ムッシュ、明日、別のワインを探すから、ちょっと待っていてくれ。出発はまだだよね?」
「いやいや、ブリュノさん、そんなこともう大丈夫。なんていえばいいのかわからないけれど、お気持ちだけで十分です」
「いや、そうじゃない。ぼくはあなたのお母さんにこのワインを飲んでもらいたかった。去年、言ってたよ。うちの母さんは赤ワインが好きだって」
おっと、忘れていた。
バーで、リコやピエールらと飲んだ時に、そんなことを喋ったような気がする。そこにブリュノもいたんだ。
「明日、連絡する」
ブリュノが帰ろうとするので、ぼくは引き止め、写真を一枚撮った。母さんに、このことを伝えなきゃ、と思ったからだ。
「会いに行くんだろ? 3年ぶりにお母さんに、手ぶらじゃだめだよ。親孝行は親が元気な時にしてこその孝行だからね」
じーんときた。
泣きそうな顔で、ぼくは携帯のボタンを押したのだった。
今日も読んでくれてありがとうございます。
日本に帰ったら、どこかのタイミングで、母さんにも会いに行かないとならないので、その時に、この赤ワインをプレゼントしたいと思います。ブリュノさんからの頂き物だよ、と。
さて、今夜はどうしたものでしょう・・・。家が広すぎるなァ、あはは。
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