JINSEI STORIES
滞仏日記「三四郎とエッフェル塔、果てしない物語、終わりのない空想世界」 Posted on 2022/06/09 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、我が町の仲間たちは「三四郎は幸せな犬だ」と言ってくれる。
ぼくが一日中三四郎と一緒にいるのを彼らは目撃しているからだろう。三四郎を家において、たとえば郵便を出しに行くだけで、すれ違う人たちはみんな「子犬はどうした?」「サンシーは具合が悪いのか?」「あの子は何をしているの?」と心配する。
つまり三四郎は気が付くと、我がカルチエ(地元)の風景の一部になってしまった。
朝、カフェに行くと、いつもの常連たちが集まって来て、三四郎に挨拶をする。
みんな手の甲を三四郎の鼻先に近づけてくる。
三四郎が全員の手をペロペロと舐める。
そこから世間話がはじまり、戦争や経済の話、誰かの噂話など、話題が尽きない。
気が付くと、ぼくの周りは、顔は知っているけど名前も知らないこの街の常連たちが集まって、わいわい、朝の座談会の場になっている。
三四郎はそのような人々のぬくもりが好きみたいで、いつもカフェの前で動かなくなり、常連たちが「寄って行けよ」とドアを開けるものだから、真っ先にこの子は中に飛び込み、みんなに「カフェ犬」と呼ばれるようなアイドルぶりを発揮するのである。
ぼくは三四郎と出会わなければ、机の前から動かなかっただろうから、この子犬のおかげで実に行動的な作家になることが出来た。
ミニチュアダックスフンドの飼い主として、さらに多くの人に目撃され、話しかけられるようになっていくのであろう。
今や「サンシーのパパ」で通っている。
三四郎のお気に入りのカフェからちょっと足を延ばすとエッフェル塔がある。
ぼくらは調子がいい時はエッフェル塔まで遠出する。
三四郎はエッフェル塔を見上げると、動かなくなる。
くんくんするのが大好きな探知犬なのに、エッフェル塔の麓に連れていくと、ずっとエッフェル塔を見上げている。
エッフェル塔のことをサンシーはどう思っているのだろう。不思議な光景である。
小さな子犬、十数年しか生きないこの子が、19世紀の後半からここに立ち尽くす鉄の貴婦人のことをどう思っているのか、ぼくに分かろうはずもないが、少なくとも三四郎はエッフェル塔がお気に入りのようで、しゃがみ込んで、見上げているのである。
その後はどんどん、エッフェル塔に近づこうとするので、リードを引っ張って、「もう帰ろう。けっこう、あそこまで行くのは遠いんだ」と説得しないとならなくなる。
すると子犬は地面にうっぷして、帰らない、と抵抗をはじめる。やれやれ。
昨日から今日にかけては、一つの作品に集中し、徹夜で仕上げたので、ぼくの頭はちょっと朦朧としている。
原稿用紙で150枚程度の創作作業だったが、一気呵成に仕上げた。
学生時代を思い起こさせるような徹夜作業に久々興奮をした。
書くのは好きだから、苦痛ではないが、ちょっと無茶をしたかな、という仕事であった。
いったい生きている間にぼくは原稿用紙換算枚数でどのくらいの原稿を書き上げて死ぬのだろう。興味深い。
いつもは自分に「無理をするな」「自分を大切にしろ」と言い聞かせているが、たまには無理をするのも悪くない。
どういう仕事でも一緒だと思うが、一点突破全面展開が必要な瞬間というのはある。
創作の仕事も一緒で、集中して、壁に穴をあけないとならない瞬間は必ずやってくる。
今日がまさにそういう日であった。
一夜で仕上げたこの150枚の作品は、ぼくが30年以上作家業を続けてきた経験が力になって、生んだ結晶でもある。
出来上がった作品を読み返してから散歩に出たけれど、実に、気に入っている。悪くない。(150枚というのはだいたい芥川賞受賞作品の枚数と一緒、かな)
書くことがなんで、大事かというと、それは頭を鍛える脳トレだからである。
書くこと、ただ書くことじゃない、創作すること、特に、小説のようなものを書くことは脳を何よりも鍛える訓練になる。
考えるだけじゃなく、筆力でその物語を動かし、虚無の中に果てしない物語世界を創出させることが出来れば、脳は常に刺激を受け、活性化していく。
物語を生むことは世界を想像することになるので、この作業は空想力を鍛えて人生に広がりを与える。
何もせずにぼんやり生きていると、筋肉と同じように、脳は間違いなく劣化するだろう。
むしろ、筋肉よりも、脳の方が限りがなく可能性があるように思えてならない。
今月、最後のエッセイ教室をやるが、その後、チャンスがあれば小説教室をやってみたい。心地よい刺激を脳が受けることで、人間は老いからも解放されるのだと思う。間違いない。
エッフェル塔の公園からすぐのカフェにまず入っていったのは、ぼくではなく、三四郎であった。
前に一度一緒に入ったことを彼は覚えていたのである。
ぼくはカフェオレを注文し、三四郎には水を頼んだ。ギャルソンは水を三四郎に与える前に、エメンタールチーズをひとかけら、ぼくの前にそっと置いた。
「もし、あなたがOKならば、ぼくは彼にこれをあげたいんですが、いいですか?」
とギャルソンは言って、ウインクをした。
この子と一緒だとぼくの創作はさらに膨らんでいく。寝てないぼくの脳は次の物語の海原へと、出奔を待っている。
つづく。
今日も読んでくれて、ありがとうございます。
明日は出張料理人をやる日なので、エッフェル塔の帰り道、スーパーでいろいろと足りない食材を仕入れ、大きな袋を担いで帰った父ちゃんと三四郎でありました。あはは。
さて、お知らせです。
ビルボード・コンサートのチケット販売が、6月13日に迫ってきましたね・・・。
また、父ちゃんのオンライン・文章教室は6月26日の日曜日です。
文章を書くのがお好きな皆さん、今回で前期エッセイ教室は最終回になりますので、お見逃しなく。これまでのダイジェストのような内容にくわえ、どうやって書いていくといいエッセイが書けるかについても、講義をしたいと思います。脳トレ、頑張って。
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