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滞仏日記「戦争に慣れてきたこの世界で、起きているもう一つのリアリティ」 Posted on 2022/05/21 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、ウクライナの戦争がはじまって2か月以上が過ぎた。
ロシアが侵攻した直後はいつ核戦争になるのかという不安や悲惨な戦地からの報道による恐ろしさによって、世界中の人々が暗くなっていた。
もちろん、いまだに出口が見えず、誰もが戦争の終結を願っているわけだけれど、戦況が膠着していることもあってか、なんとなく世の中が戦争に慣れだしているような空気感を感じる。
コロナ禍もまだなくなってはいないというのに、確かに共存のスタイルは整いつつあるにしても、もう誰もぼくの周りでは感染者数を話題にすることもなくなった。
慣れてきたのだ。いろいろなことに。

滞仏日記「戦争に慣れてきたこの世界で、起きているもう一つのリアリティ」

※ 作品「世界地図1」



NHKの有馬嘉男さんがMCを務めたNHKのウクライナからの報道番組を見る機会があった。
リビウがあまりに普通の状態なのでちょっと驚いた。人々は普通の恰好で通りを普通に歩いて過ごしており、カフェやレストランも普通に開いていた。
一方、今日、BBCの特派員が東部ドンバス地方の最前線から送って来たドキュメンタリーを見た。
砲弾が飛び交い、家々が完全に破壊されている苛烈な最前線をウクライナ軍小部隊が進軍する生々しい映像で、同行するBBC特派員らによって撮影されたものである。
その途中、破壊された家に老婆が一人暮らしている場面に、遭遇した。
兵隊たちが、安全な場所へ逃げる手伝いをするからと申し出るが、老婆は「ここが私の家だから出ない」と拒否する。
「夫の墓があり、ここから動けない」と言い張るのだ。その時、砲弾がすぐ近くに着弾した。画面が揺れた。
でも、老婆は「もう慣れた」と呟き、微動だにしない。
兵士たちが身を伏せる格好をするのだけど、彼女は目をはらしながら、
「安全な場所に避難したとして、その先はどうなる。その先、私はどうなるの?」
と言った。
この問いかけに兵士たちは答えることが出来ずにいた。戦争に慣れ始めていたぼくの心が激しく揺れた瞬間だった。これも現実なのだ、と思った。
兵士たちは前進しなければならない、ウクライナ軍本隊を援護しないとならないので、彼らは先へ進むことになる。
「必ず迎えに来るから、荷物をまとめておくように」と言い残して、砲弾降る中を小隊は移動した。
老婆は、とぼとぼと自分の家の方へと歩いて戻って行った。
その一帯には他に誰もいない。老婆は何を食べて、この爆弾がさく裂する中で日々生きているのか、とぼくは瞬きさえできなくなった。
これも現実のウクライナなのである。

滞仏日記「戦争に慣れてきたこの世界で、起きているもう一つのリアリティ」

※作品「世界地図2」



ぼくらはこういう情報をネットなどから集めている。
でも、最初の頃の比べ、どこまで積極的にこの情報を得ようとしているだろうか。
メディアもここ一週間ほどで、ニュースの中身に変化が起きつつある。
いつまでもウクライナ問題ばかりを扱えない、という感じに見えなくもない。
スリランカで部分的デフォルトがおき、バイデン大統領が韓国に到着し、北朝鮮でコロナが感染拡大しているという・・・。
パリの街角でも、ウクライナ侵攻に強く抗議していた人々の声のトーンが、猛暑のせいもあるだろう、ちょっとダウンしてきた。
プーチン政権への怒りは持続しているが、二か月前とはちょっと違う空気感になってきた。もちろん、戦況がややウクライナに優位に見えるということもあるが、やはり、慣れてきたのではないか・・・。

滞仏日記「戦争に慣れてきたこの世界で、起きているもう一つのリアリティ」

※作品「世界地図3」



知り合いのところに、どういう団体からかはわからないけれど、「家庭内で暴力を受けていることはありませんか?」というアンケートが届いた。
「暴力に慣れないで、自分が危険な場所に置かれていることを自覚しましょう」という運動のようであった。
戦争だけではなく、家の中でも、我慢をしている人たちが増えているのだという。
何か、現実と非現実が混ざり合って、痛みや悲しみの本質が可視化できない状況にある。
戦場に立たされている、例えばロシア兵たちの心の中にも、起きている。
今日のラジオで、ウクライナで無抵抗の市民を殺害し捕まった兵士のことが話題になっていた。兵士は、殺した民間人の妻に「許してほしい」と謝罪をしたが、なぜ、君は戦場にいるのかという本質の質問には答えられなかったのだという。
きっと、駆り出されて、戦地に連れてこられたのだけど、大儀がないのだろう。
ロシア兵も大勢死んでいるので、ある種の狂気の中にいるうちに道徳観が麻痺し善悪が分からなくなっているのかもしれない。
そういう兵隊が大勢いるのだろうと想像することが出来る。
こうなると、激戦地では人間の証明など不可能になる。
それが現実の戦争ということだ。
ぼくらは、慣れ始めたこの日常の中で、慣れ過ぎないように、意識を研ぎ澄ませていくしかない。

つづく。

滞仏日記「戦争に慣れてきたこの世界で、起きているもう一つのリアリティ」

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