JINSEI STORIES
滞仏日記「鬱になり厭世的になった肉屋のロジェを死の淵から救ったもの」 Posted on 2022/05/18 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、夏だ。すっかりパリは夏日なのである。
うちの愛犬、三四郎はずっと寝ている。
考えてみると、9月生まれのサンシー、生まれてはじめての夏を体験中なのである。
今週、30度を超えるという噂あり。ひゃあ。
犬はある意味毛皮を着ているわけだから、そりゃあ、苦しいだろうなァ。
散歩に出るたびに、「勘弁してよ」と歩くのを拒否して、日陰に飛び込んでいる。
ところで、今日、ちょっと嬉しい人とばったり道端で出会った。
肉屋のロジェであった。
一年前、初放送されたNHKの「ボンジュール、春ごはん」以降、毎回、番組に出演してくれているぼくの行きつけの肉屋の店主だが、前にもちょっとお話をした通り、身体と心を壊し、入院していたのだ。
それが、元気よく歩いているので、びっくりした。
「ロジェ~!!!」
「あああ、ツジー」
ぼくらはカフェに入った。三四郎は足元でバテ、横になっている。
「元気なの?」
「ああ、すっかりいい。かなり良くなった」
「何があったの? 奥さんのシルヴィーがさ、あんたがバーンアウトして入院してる、と言ってた。なんで? バーンアウトって、何があったの?」
ロジェはこう見えてもぼくより二歳も年下なのである。ぼくの弟と同い年だ。
「それが、最初に足腰をやられて、店に立てなくなった。考えてもみてくれよ、十代からずっとこの仕事を続けてきた。毎日、店に立ち、お客さんにフランス中のぼくがセレクトした自慢の肉を提供するのがぼくの生き甲斐だった。最近ではNHKにまで出演させてもらって、鼻高々だった。それが立てなくなって、ベッドから出られない、情けない。その焦りが、心を折ってしまったんだよ」
ロジェはこの界隈では有名で、首相府や国会の仕出しなどもやっている。
何か立派な賞も持っている、ともかく、街の名士なのだ。
自分の仕事に誇りを持っているし、とっても頭のいい人で、本当に尊敬している。
何より、まじめなのだ。人の悪口も言わないし、丁寧に生きているし、朝から晩まで仕事、仕事、仕事の人間なのだった。
「入院直後の最初の二週間は、ずっと、地面ばかり見ていた。もうだめだと思った瞬間が何度かあった。死のうと思ったよ。死ぬことしか考えてなかった」
ロジェはジビエの肉も売るので、当然だが、狩猟もやる。散弾銃を持っている。一瞬、頭をかすめたのはそれで自殺でもしたら、ということだった。
「でも、こうやって、元の世界に戻ることが出来た」
「よかった。何が転換点になったの」
そこでロジェが満面の笑みをみせて笑ったのだ。
「シルヴィーだよ」
「シルヴィー、奥さんかい?」
「ああ、彼女は毎日、病院にやって来た。そして、ぼくをずっと励ましてくれた。ツジー、いいかい、パートナーは大事だ。もしも、ぼくが一人だったら、ぼくは死を選んでいただろう。でも、幸い、ぼくはあいつに強引に病院に入れられ、しかも、シルヴィーは一月間、毎日やって来て、ぼくらの愛について、語り続けたんだ。あの人がいなかったら、ここにはいなかった」
彼が入院した直後、ぼくは八百屋で、シルヴィーと会っている。
ロジェが入院したのよ、と真っ青な顔で訴えた。ぼくは驚いた。でも、私がなんとかする、絶対になんとかする、と強い決意を言い残してそこを去っていった。
「素晴らしいね」
ロジェがぼくの手を握った。そしてもう一度、微笑んだ。
良かった。
最近、不意にこの世界を去っていく人のニュースをあちこちで耳にする。みんな、苦しいのだ。ぼくも苦しい。すると、ロジェが再び語りだした。
どうすることも出来ない不安に襲われるんだ、と思いだすように告げた。
「もう、今までのように生きられない、自分の意味がなくなってしまう。ぼくは終わったと思った。頑張ることが出来ない、と思うと、生きる気力が出ないんだ。でも、ぼくは腰が悪くて立てなくなり、そこから鬱になったので、入院したのが幸いした。大変だったけど、入院して、治療を受けて、そこに妻がやって来て、救われた、という奇跡がいくつか重なった。一歩間違えていたらと思うと、怖いよ。ぼくの隣の部屋にフランスでは誰もが知る有名な政治家がいた。彼はコロナ禍や戦争の板挟みになり、政治判断ができなくなり、心が崩壊したんだ。挨拶に行ったら、ダリダとアランドロンの「甘い囁き」のサビ、知ってるかい? パローレ、パローレ、パローレ、って繰り返すヒット曲のあのメロディを窓外を見ながら口ずさんでいた。頭がいっぱいいっぱいになった証拠だよ。ぼくは彼を抱きしめ、またお会おう、と言い残し、この世界に戻って来た。ぼくを救ったのは妻の愛だった」
ぼくが席を立つと、ロジェも立ち上がり、こう告げた。
「実は、昨日、肉屋を売ったんだ。後悔はない。もう、この商売をやめることにしたんだ」
「そうなんだ!」
ぼくはびっくりしたが、それがいい、と思った。
「シルヴィーと世界中を旅する。もう、十分、働いた、頑張るのをやめて、命を大事に生きていくよ、あいつと。シルヴィーと」
ぼくはロジェの肩を叩いた。
「いつか、二人で日本に行きたいなァ」
「それはいいアイデアだ。歓迎するよ」
ロジェが笑った。
つづく。
今日も、読んでくださり、ありがとう。
ぼくも62歳だからね、いつ、バーンアウトしてもおかしくないですよね。
田舎に転居したのは、正解かもしれません。
無理しない程度に頑張り、面倒な世界とは出来るだけ関わらないで静かに生きよう、と思いました。三四郎に感謝をしながら・・・。
さて、お知らせです。
辻󠄀仁成 アコースティック セレナーデ フロム パリ
Jinsei Tsuji Acoustic Serenade From Paris
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8/8(月)1stステージ 開場17:00 開演18:00 / 2ndステージ 開場20:00 開演21:00
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