JINSEI STORIES
退屈日記「早朝、息子君は試験会場に出かけて行った。父ちゃんは眠れず」 Posted on 2022/04/23 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、ついに、受験の日を迎えた。
頼まれていたお弁当は昨夜作って水のペットボトルとともに渡しておいた。
「朝ごはんもなんか食べていった方がいいかな」というのでバナナを買って、キッチンに置いておいた。
というか、眠れず、4時までベッドでうつらうつらしてしまった、父ちゃんなのである。
朝、6時過ぎに、ドアが閉まるバタンという音で目が覚めた。
「いってらっしゃい」と送り出す予定だったのに、不覚にも明け方爆睡してしまった。
身分証明書とかいつもパパが保管しているのだけど、聞かれてないじゃん、とうつらうつら考えだしたら心配になり、一応、SMSでメッセージを送った。
「いってらっしゃい。パスポートは持ってるか?」
返事はない。電車なのであろう。
今日の受験はフランス全土、十か所ほどで行われている。
息子はラッキーなことにパリ近郊の受験会場で受けることが出来るが、親友のトマ君はリヨンまで受けに行かないとならないので前泊だという。
家から会場まで行けるので息子にとってはよかったけれど、受験生は世界中どこの国も大変である。
ともかく、試験会場での受験は今日だけ、息子もめっちゃ緊張しているようで、ここ一週間は食堂のテーブルを占拠して、本やノートを広げて、珍しく超真剣な顔で勉強に勤しんでいた。
横を通過するのも憚られるほど・・・、そういう姿を見ると、大人になったなァ、と感慨深い父ちゃんなのである。
通過するとき、ちょっと覗き込んだら、当たり前のことだけど、大きなノートがびっしりフランス語で埋め尽くされており、ひゃああ、すげー、と思わされたり、笑。
小腹がすいたろう、とサンドイッチを持って行ったのだけど、前傾姿勢で勉強をしているので、迂闊に声をかけられず、ひゃあああ、すげー、と感動したり、笑。
見守るしかないのに、父ちゃんも緊張してきたので、仕事部屋で音楽をかけていたら、
「マジ、頼むから、今日だけメタルやめて~」
との息子からのメッセージがSMSに飛び込んできて、ひゃああ、やべー、と慌てたり、笑。
受験生の親も、胃が痛いのであーる。
思えば、18年前に、この子はパリで生まれた。
いつまでも父ちゃんの中では子供なのだけど、もう、18歳、フランスでは成人なのである。
そして、ここから大学生生活がスタートする。
今は、彼の未来を決める岐路なのだ。親に出来ることは見守るほかない。
バタンとドアが閉まった時、まだ、朝の6時11分だったが、彼が無事にパリ郊外の会場について、ベストを尽くせるように祈るしかないのだ。
ちゃんと朝、うんちは出ただろうか、とか、バナナの先端がちょっと痛んでいたけど取り除いて食べただろうか、とか、そのせいでお腹壊して試験に集中できなかったら、父ちゃんのせいだ、などと考えたり、笑。
しかし、泣いても笑っても今日、すべてが終わる。
彼が受ける十の大学のうち、試験があるのは今日の学校のみで、あとは国側と大学側がこれまでの成績などで判断をする。(本人曰く、必ずどこかには入れるとのこと)
息子くん、フランス国籍は持ってないので、日本人として受験しているが、日本人であることがこの試験や彼の未来にどのような影響があるのか、ぼくにはわからない。
でも、フランスで生まれた我が子、気が付いたらフランスですくすく育ったわけで、親は日本人で、まともに仏語もしゃべることが出来ず、離婚もあり、ロン毛の父ちゃんに育てられ、文句も色々と言いたかっただろうけど、黙々と一人で頑張って来たのだ。
彼を支えた大人たちが周囲に複数人いる、それは彼の人徳なのであろう。
ぼくなどは邪魔しかしてこなかった。親としては恥ずかしい限りだが、それでも、今日で、まず第一弾が終わる。
あとは高校卒業試験のバカロレアがあるけれど、それはもうほぼ通過しているようなので、つまり、大事なのは、2022年4月23日の今日という日なのだ。
ドアがバタンと閉まってから、眠れなくなって、息子からの返信を待ち続けつつ、パリの快晴の青空を見上げていたら、
「ちん」
とワッツアップの受信音がなった。
覗くと息子からで、
「持ってる」
と一言、入っていた。
よかった。安心をした父ちゃんなのだった。
美味しい夕食を用意してやろう。
つづく。