JINSEI STORIES
滞仏日記「3月15日、今日の雑感」 Posted on 2022/03/15 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、一部の日本の有識者がウクラナイナに白旗をあげたらどうかと発言して物議をかもしている件だが、ぼくはその報道を読んで、ちょっと首を傾げた。もちろん、これ以上犠牲者を出したくないので、政治的判断としての白旗ということなのだと理解できる。しかし、主権国家というものの意味が分かってない。じゃあ、人が殺されるのを黙って見ているのか、という意見もあるだろうが、無条件降伏した場合、ロシアに支配されたウクライナで、その後、今よりももっと多くの不幸、暴力、差別、不条理な死、支配が長年にわたって起こる可能性の方が高いわけで、言論の自由は当然だけど、無責任に発言するのはいかがなものだろう。その判断は、ウクライナ人、4000万人がするべきことだ。安全なテレビカメラの前にいる、あなたたちじゃない。
前にも書いたが、ぼくが北海道で家族と過ごしていた1970年代、「ソ連が攻めてきたら、15分ももたない」と言われていた。生きていた父親に根室半島突端の納沙布岬に連れて行ってもらったことがある。実はそこから肉眼で北方領土が見える。「そこにはソ連兵がいるんだ」と父親に教えられ、恐怖を覚えた。あれから、半世紀の歳月が流れた。「SATAN2」という核ミサイルなら、欧州各都市は、15分以内に壊滅させられてしまう。一発でフランス全土が焦土と化す。肉眼で見える日本は、数える間もなく、白旗を上げる暇もない。
※ SATAN2が、どれほど怖い核ミサイルか、編集部でまとめた記事はこちら。
https://www.designstoriesinc.com/europe/paris0304/
このような時代の戦争は、一歩判断を間違えると、あるいは常軌を逸した指導者の一言で全てが消えさる儚い状態に置かれている。そういう前提を想定しておかないとならない。ぼくらは核の抑止力の中で生きているが、同時に核大国は情報世界に生きる世界中の人々の視線にもさらされている。ロシアが激しい経済制裁で沈没するならば、ウクライナ危機が、他の独裁者たちに躊躇させるシグナルを送る可能性がある。ここでウクライナが呆気なく消え去るならば、同じような独裁国家たちを勇気づけることになる。核抑止力に対抗できるものは、自由を求める人間の尊厳だけだ。ロシア国内でプーチン政権と戦う大勢のロシア市民もそこに含まれる。ウクライナの人は善戦しているし、ロシア軍部はおそれ、焦っている。おそらく、ロシアがキエフを攻略しても、この戦いはしばらく終わらないのではないか。あるいは、この争いは世界中を苦しめ続けるだろう。白旗をあげたら世界が終わる、そのような戦争がいま、ウクライナで始まった、ということだ。これは、他人事ではなく、人類にとって、自由と尊厳をまもる戦いなのである。
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