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滞仏日記「核脅迫と核抑止。人類は今、核兵器戦略とどう向き合うべきか?」 Posted on 2022/03/03 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、ウクライナ危機が危険な曲がり角に差し掛かっている。
この数日で、世界は新たな局面に追い込まれる可能性が出てきた。
3日前、プーチン大統領はNATOから攻撃的な発言がなされていることを理由に、核戦力を含むロシア軍の核抑止部隊に任務遂行のための高度な警戒態勢に入るよう指示をだした。
核戦力をちらつかせる「核脅迫」ともとれる、驚きの命令である。
この緊張に拍車をかけるヒステリックなまでの行動の精神的背景はわからない。
重病説も囁かれているが、プーチン大統領が何を考えているのか、わからない。
ただ、高度な警戒態勢という言葉の裏側に、これまでずっと封印されてきた「核抑止」を飛び越えた現実の核戦争の匂いさえ感じとることが出来る。
ちょっと、本題に入る前に、この世界には、「核拡散防止条約」というものがあることを思い出して貰いたい。
簡単に言うと、米国、ロシア、中国、英国、フランスの五か国以外は核兵器の保有を禁止するというものである。
「誠実に核軍縮交渉を行う」という一文が条約に規定はされているが、締結後、いくつかの国で、核兵器の保有数が大幅に増加している。
2020年の時点で、この世界には13865発の核兵器が存在し、その90%以上を米国とロシアが保有している。
さらに、保有国は増えて、インド、パキスタン、イスラエル、もしかすると北朝鮮などが保有している。
ロシアに至っては6500発を超える核兵器を持っている。
フランスは300発だ。
たとえば、ロシアが核兵器をパリに撃ち込んだとする。
そのミサイルはロシア本土発射から僅か15分程度でパリに到達し、全てを抹消してしまう。
誰が今、この「核拡散防止条約」が機能していると信じるだろう。



ぼくは今日、三四郎を散歩させながら、ずっとそのことを考え続けた。
プーチン大統領がウクライナを短期間に征服できない焦りから核脅迫に転じたことは、時代が一瞬で、冷戦以前に戻ったことを意味している。
核兵器は一度使えば世界が終わる兵器であり、誰が最初に攻撃をするかではなく、使ったら、刺し違えるような恐ろしい結末、終わりをこの世界に連れてくることを意味してもいるのだ。
それを前提にぼくらはここから先を考えないとならない。

核抑止という言葉を多くの人が使うけれど、これは実際に機能出来るものだろうか?
ロシアのような核大国が核兵器を使ったら、相手も相応の対応をとる。
相応の対応がどんなものか、想像してもらいたい。



ぼくは子犬の三四郎を連れて、エッフェル塔のたもとにいた。
上空を横切っていくミサイル・・・。
まず、ぼくが最初に想像したのは、テーブルを囲む十人ほどの男女である。
実は彼らの中で1人が拳銃を所持している。
残りの9人はその拳銃を持っている人間に長いこと反論出来ずにいた。
というか、元々は全員そのグループの一員で、いろいろな事情でそのうち何人かは拳銃の所持を放棄している。
9人は拳銃を持つ男の顔色を窺ったが、その中にこの拳銃男から不条理な要求を突き付けられた人物がいた。
拳銃を持った男が、拳銃をちらつかせ、その人物を驚かした。拳銃を手放さず持っておけばよかった、と後悔したかもしれないが、後の祭りだった。
服従させるために、拳銃男はその一人に、嫌がらせを繰り返し、その人物のものを奪った。
その人物は拳銃が怖いので逆らうことが出来なかった。
ところが、見かねて、そこに別のグループの拳銃を持った男たちが近づいてきた。
虐げられてきた人物は、新たにやってきたピストル男たちの傍へと逃げた。
それまで逆らう者のいなかった拳銃男が拳銃をチラつかせ、テーブルに置いた。
この争いは平衡状態になった。こういう危ういバランスの中にあるのが、今のこの地球ということになる。
テーブルは地球であり、ロシアとアメリカは6000発を超える核兵器を持っている。



ウクライナ危機の一番怖い問題は、実は、プーチン大統領が核兵器部隊に出した「高度な警戒態勢」という言葉に集約される。
この発言は、平衡状態を揺るがす大きな一撃でもあった。
「核戦争など、そんなことはあり得ない」と英国の政府高官が語ったが、その根拠は実はどこにもないのだ。
「ならば、みんなが核武装すればいい」
実はそういう物理的な問題はもはや、意味がない。なぜなら、核を使用した場合、瞬時に世界が終わってしまうからである。



たとえば、ロシア軍がキーウ(キエフ)に侵攻し始めた時、まさか、と思った人の方が多かったのではないか。
今日までに、子供を含む2000人超のウクライナの民間人の命がこの戦争で踏みにじられている。この数字はもっともっと増えていく。
一線を越えてウクライナへ侵攻したロシアこそが、もはや後戻りできないことを、一番知っている。
拳銃を持った男は、持ってない人たち(あるいは持っている連中をもさえ)撃つ可能性がある。
非常に危険な綱渡りの中に世界が置かれていることを考える必要がある。
政治がきちんと機能出来なければ、悪夢は現実になる。
英国の高官は、「もし、この核バランスを崩したら、世界が終わるから、無い、ありえない」と思って発言したのだろうが、追い込まれた拳銃男にこのような理屈が通じるだろうか?
なぜかといえば、それはプーチン氏が確実に歴史に名を残す人物になったからだ。
どういう名声かは分からない。その後の世界が決めることだろう。
そのせいで、私たちは今、かなり危険な曲がり角に立たされている。

つづく。

滞仏日記「核脅迫と核抑止。人類は今、核兵器戦略とどう向き合うべきか?」



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