JINSEI STORIES
滞仏日記「誕生日という日にぼくはこんなことを考えた」 Posted on 2021/12/09 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、息子を呼び止めた。
ちょっと話しがあるんだ、と言った。息子は食堂の入り口で立ち止まった。
「実はね、菅間さんなんだけど、・・・先週、亡くなったんだよ」
ぼくは息子に、長いことぼくら父子を支えてくれた秘書さんがこの星を離れたことについて、伝えた。
受験生だから刺激したくなかったけれど、外から聞かされるのは嫌だろうから、ぼくが伝えることにしたのだ。
ぼくと二人きりで生きることになった後、特に、日本で彼の世話をしたのが菅間さんといとこのミナだった。
でも、菅間さんは息子と一緒に九州を何往復もしたし、息子が一人で日本に行く時には、空港で彼を待ち受け、そこから九州の実家まで一緒に旅をしてくれたこともあったし、夏休みのあいだは、菅間さんがお母さん代わりになって、10歳や11歳や12歳や13歳の息子をキティランドや水族館やディズニーランドに連れて行ってくれた。
それなりに、きっと、想い出があるだろうから、別れの嫌いな息子になんと伝えるかで悩んだのだけど、ぼくはまっすぐ、言葉は選ばず、伝えることにした。
「オッケー」
と息子は小さな声で言い残して、踵を返した。
そのあと、今のところ、息子の様子に変化はない。
寂聴さんが死んだ時も、オッケー、と小さく呟いて自分の部屋に入っていった。
寂聴さんにも、ずいぶんと可愛がられていた。想い出はあるはずだった。
何が、どういう意味のオッケーなのかわからないけれど、思うに、わかった、という意味だと思う。
それは頭で理解した、ということであろう。
それ以上のことは、人間にはわからない。
死んだことのある人はいないので、死が何か、わかったふりをしている人はいるけど、たぶん、鈍感なぼくには死ぬまでわからない。死んでもわからないかもしれない・・・。
でも、みんなが思うほど暗くて悲しいものじゃないような気もしている。
とにかく、残された者は、人の死の意味を時間とともに静かに悟っていくものなのである。
残された者の方が、引きずるかもしれない。
あの子は人の死をどういう風にとらえているのだろう。
ただ一つ、息子はお別れが嫌いなのだ。お別れが好きな人はいないけれど、とにかく、息子は誰かが帰る時、いつも姿をくらましていた。
さよならを言いたくないのだな、と思ったことがあった。
会えなくなるのが嫌いなのだ。
今日、9日は菅間さんの誕生日なのである。
誕生日を目前に、彼女は亡くなったことになるけれど、発見されたいくつかのパスワードに、彼女は自分の誕生日の日付を使っていた。
それは昔から知っていたので、12月になると、そろそろだな、と思っていた。
実は、まだ見つからないもの、書類、パスワードなどがあり、ぼくの個人事務所は完全復帰が出来ていない。
弟の恒ちゃんが菅間さんの引継ぎをすることになったのだけど、連絡のつかない編集者の人もいるし、年内に完全復帰は難しく、しばらくはこの状態が続くことになりそうだ。
ただ、菅間さんは亡くなる前日に、ぼくに郵便を投函していたが、同じように会計士さんとかにも、送っていたようで、次第に復旧してきた事務所関係の方々との中で、
「郵便が届いてびっくりしました」
というメールがあった。
そのいくつかの郵便物はそれがないと、ぼくの活動がストップしてしまうようなもの。
まるで、自分の旅立ちをわかっているような郵便物で、ぼくは郵便受けの中にそれを発見した瞬間の驚きをいまだに忘れることができない。
彼女が郵便局に行く前日、菅間さんのお姉さんは彼女と一緒に過ごして、地元の山河を見ながら、散歩をし、いろいろな話しをしたのだという。
彼女は、日本で最初の女性の骨髄移植成功例だったから、ずっと死を見つめて生きてきた。
でも、生きることに精一杯尽くした人でもあった。
ぼくがいま、後悔をしてもはじまらない。
5年前にスタートした新世代賞から若い才能が出てくるのを本当に喜んでいたので、その審査の日に旅立たれたのが、菅間さんらしい、と思った。
ぼくは、菅間さんの分も、頑張って生きなきゃ、と思っている。
新世代賞から出た子たちを菅間さんが育てた人たちだと思って応援し続けたい。
ぼくの仕事は、コロナでこんなにきつい世の中だけど、今、生きようと頑張っているみんなに元気を届けることだと思っている。
誕生日という日に、こんなことを考えた。