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滞仏日記「さようなら、瀬戸内寂聴先生」 Posted on 2021/11/11 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、いつか、この日が来ることは分かっていた。
そして、訃報というのはだいたい、目覚めと同時に、訪れる。
文芸誌「すばる」のかわさきちえこさんから、先生の訃報の詳細と追悼文の依頼がメールボックスに入っていた。
自然とパソコンに向かっているのだけど、なんでだろう、あふれ出るように、言葉が出てこない。
言いにくいことではあるが、悲しみはなく、むしろ、これで先生、楽になられますね、とぼくは間違いなく、どこかで思っている。
自分の気もちがまだよくわからない。
先生が亡くなられた正確な時間はわからないけど、亡くなられたと報道されている時間から推察するに、ぼくはその日、フランスの西の浜辺にいた。
今は、我が息子が大学生になった後、人生の終の棲家にしたいと思って買った海辺のアパルトマンで一人暮らしの訓練をはじめている。
なぜか、胸騒ぎがして、家から出て、目の前に広がる浜辺で沈む夕陽を見ていた。
その時間に亡くなったかどうかはわからないけど、あとで、旅立たれた日と聞いて、納得した。
それが、かつて一度も見たこともない、寂しい太陽だったからだ。
その時、別れというものはこうやって、日々に教えられていることだ、と思った。
「さようなら、この日はもう永遠にさようなら」

滞仏日記「さようなら、瀬戸内寂聴先生」

滞仏日記「さようなら、瀬戸内寂聴先生」



先生にもっと長生きしてほしかった、と思われた方は大勢いらっしゃるだろう。
先生に励まされた皆さんならば当然であるし、ぼくも寂庵などの法話の会に何回か参加させてもらったことがあるので、多くの方が先生に救いを求めてそこに集まっていたのを知っている。
でも、だからか、先生は今、肩の荷がおりているのではないか、と想像もしている。
「やだなぁ、ぼくは先生の追悼文だけは書きませんからね」
と大昔、先生に暴言を吐いたこともあった。
百歳まで生きてほしかったというどなたかの優しいメッセージを読んだが、それは、有難い想いではあるけれど、もう、あっちへ渡られた先生には、百という数字は意味がないのかもしれない。
「辻さん、またね」
出会った頃、寂庵から去る時に、玄関口で先生は笑顔で寂しそうに言ったものだ。

滞仏日記「さようなら、瀬戸内寂聴先生」



ぼくは何を覚えているというのであろう。
先生に厳しくされたことしか、思い出せない・・・。
そうやって、手を差し伸べてくれた時より、厳しく突き放された時のことばかり、思い出す。
30年以上のお付き合いだからかもしれない。
私の息子のような子だ、と人に紹介された時もあるけど、本音で叱られた時の方が多かった。

ちょっと前から、先生が亡くなられる気がしてならず、何度も先生の携帯に電話をいれていた。
珍しく返事もなく、寂庵にかけても、受付の人は出るのだけど、なぜか、繋がらなかった。
お別れが出来そうにないな、と実は覚悟していた。
コロナが世界的に流行ってから、多分、もうお会いできない、と諦めていた。
そういえば、ぼくが瀬戸内先生とあまりに仲がいいものだから、母さんに、私には会いにこないくせに、また京都にいるのか、と焼きもち焼かれたこともあった。
先生の仕事場で飲み明かしたことがある。2人で一升瓶をあけた。豪快な人だった。
でも、酔って寝てしまったぼくが、次に目を覚ました時、先生は机に向かっていた。
鉛筆の芯が原稿用紙をこする音が響き渡っていた。
ぼくが知る先生は、あの笑顔の瀬戸内寂聴さんではない。
ぼくの中で昭和がやっと終わった。
先生は、寂しさを常に横に置いている方でもあった。
宗教と小説はどちらが大切ですか、と訊いたら、即答で、小説に決まってるでしょ、と戻ってきて、静かな笑いに包まれた。
ある意味、創作の鬼みたいな人だった。
書けなくなることの方が、生きられなくなることよりも、寂しいのかもしれない。
涙がとまらない皆さんは、先生の名前を思い出してほしい。
寂しく聴く、と書く。それは人間のことである。
生きている人が生きている間に精一杯生きることが、先生がやってこられたことだと思う。

追記。先生の追悼文は「すばる」だけに書かせて貰います。また、報道のみなさま、この日記の転用はお避け下さい。

滞仏日記「さようなら、瀬戸内寂聴先生」

※ 2018年、7月。



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