JINSEI STORIES
滞仏日記「中島君が今日も我が町を奔走している。いったい彼はいつ休んでいるのか?」 Posted on 2021/11/08 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、先月から、受験生を抱える辻家の家事のお手伝いさんとしてやってきた、フィリピン人のエリック君。(愛称、中島君)
昨日は、夕方、大通りを大型犬にひっぱられながら、小走りで走っていた。
彼が月曜から金曜日まで働く元大臣の家のわんちゃんのお世話・・・。
相当に大きな犬で、年老いた元大臣の力では散歩が大変になったのに違いない。
引っ張られながらも、一緒に走ったり、うんちの片付けをしたりしていた。
今日は、午前中、自転車に乗って、路地を曲がってきた中島君を、道の反対側から見つけた父ちゃん。
今まで、彼の存在に一度も気づいたことがなかったのに、不思議なものだ、彼はずっとこうやって、ぼくの目の前を通過していた・・・。
ぼくは今、片付いた部屋の、光り溢れるガラス窓の下で、小説を書いている。
くすんで埃だらけだったのに、今はあまりに開けたその世界が、広がっている・・・。
土曜日、中島君はいつもの時間にやってきた。
息子がいたので、食堂に移動させ、彼がご飯を食べているあいだに、まず、子供部屋の掃除をしてもらった。
空気を入れ替え、ぼくにはできなかった本棚の上の埃をはたいてもらったり、ベッドの下の汚れをふき取ってもらった。
息子も、中島君の人間性が分かるみたいで、ボンジュール、と彼にしては明るい声音であいさつをしていた。(父ちゃんには、まったく、見せない笑顔までも・・・。ちぇ)
中島君は相変わらずの、ナイススマイルで、でも、嘘のない笑顔なのである。
すると、中島君、脚立を持ち出してきて、部屋をスマートに横切っていった。ええええ? 何をする? まさか、窓ふきー?
窓ふきはいつかしてもらいたいと思っていたけど、うちは大きな見開きの窓が5枚もあるので、これはぼくにはできず、どんどん、歳月と共にくすんでいたのだ。
最後に窓ふきをした日が思い出せないくらい遠い・・・。
中島君、脚立に昇って、一番高いところを丁寧にふいている。
おお、これはプロの仕事じゃないか。凄い、嬉しい。
コロナ禍がはじまった2020年以前の光りがこの家の中に降り注ぐかもしれない。ウキウキした父ちゃん、思わずステップを踏んでしまった。
この写真は、ステップを踏んだ後に、記念に激写したものである。げきしゃーーー。
彼のポケットに刺さっているのは、窓ふき用というか、埃を払うスイファーとよばれるハタキ・・・。
なぜか、様になっている。かっこいい。
あまり、作業の邪魔をしちゃいけないと思った父ちゃん、嬉しいからスキップをしてキッチンへと行ったら、おおおおおおお、ぴかぴかなのであーる。
なかなか、床、掃除って、自分じゃできないから、ぼくだと、キッチンペーパーとかでサササっと拭いて終わりなのに、中島君が掃除した後のキッチンは、すべすべのお肌みたいに、燦然と輝いているのだ。
これがプロの仕事だ、とにんまり笑う父ちゃん。
元大臣が彼を手放さないのが、よくわかった。
一週間に一度のお手伝いだけど、・・・。
もっと早く中島君と出会っていればこんなに苦労をすることもなかったのに、・・・。
3時間、休むことなくびっしりと働いて、
「サンキュー、サー」
と大きな声で言い残して出ていった青年。
爽やかで、元気で、しっかりしている。
なんか、言葉で言い表せない感動と感謝に包み込まれた。
もちろん、仕事だから、彼は当たり前のことをやっているだけなのだろうけど、こんな逸材、やめないでずっと我が家の面倒をみてもらいたい、と思ったものである。
ぼくは息子の部屋に行き、
「ちょっといいかい」
と言った。
そして、仕事場で話したいことがある、と伝えた。
リサに昨日言われたことを、まず、自分なりの言葉で伝えなきゃと思っていた。
リサに丸投げする前に、まずは、ぼくから、彼に伝えたいと思った。
ぼくと息子の間に中島君が磨いたクリスタルのような窓ガラスが聳えていた。
「あと二か月で君は成人する。そこからは、自分で生きろ」
「?」
「パパが言いたいのは、勉強しろと言ってもやらないだろうから、一つだけ言わせてもらいたい」
リサが言った言葉を思い出した。あまやかしちゃダメよ・・・。
「18歳を過ぎたら、パパのせいにはするな。自分で責任をとるのが成人だからな。浪人したら、パパは応援をしない。自分で仕事を探して生きていけ」
「・・・」
厳しい言い方だけど、・・・
『大丈夫だ、パパがいつまでもお前を守ってやる。家はあるから、ここで寝泊まりして、ゲームをやって、幸せに生きていい』
では、彼は生きていけない。彼のためにはならない。
独特の、ある意味で、階級社会の欧州では通じないのだ。
そこで、ぼくは、今までで一番厳しい言葉をぶつけてみた。
「来春、君が大学に入れなかったら、パパは日本に戻る」
「・・・」
「それから、リサが週末に話したいことがある、と言っていた。進学についてだ。行って話しを聞いてこい」
「・・・」
「分かったね?」
「うん」
ぼくはガラスの向こうに広がる明るい世界を見上げた。綺麗な窓ガラスであった。
自分の力で生きるのだ。
それが大人になるということだ。