JINSEI STORIES

退屈日記「たくさんのドラマが飛び交う我が町で、知り合ったご年配の日本人紳士」 Posted on 2021/10/30 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、二百メートルくらいの通りなんだけど、いろいろな人が住んでいて、もちろん大金持ちもいるし、そうではない人もいるし、白人も黒人もアラブ系の人もアジア人もあらゆる人たちが住んでいて、二コラたちのアパルトマンもこの通りの突き当りにあるし、ま、だから知り合いだらけで、スーパーに買い物に出るだけで、呼び止められて前に進まない。
これが困ったことに、どうでもいい人が少なくて、みんないい人たちだから、無視できないので、5分で済む買い物に30分かかることも、しょっちゅう。
一昨日、管理人のブリュノにチーズをご馳走になったのは日記に書いた通りだが、美味しい、と褒めたからか、今日、雨があがりに、パンを買いに行ったら、店員さんが「ブリュノさんが、あなたにって」と言われ、先日の褒めたのとまったく同じパンを貰ってしまう・・・。やれやれ。
「ぼくはもう年だし、長くないし、お金を持っていてもしょうがないから、ある時に使うんだ。だから、気にしないでくれ」
いつも、そう呟いて、コーヒーなんかをご馳走してくれる。
ぼくは今、この通りを舞台にした、そこで暮らす様々な人々の複合的な長編を書いている。大長編小説で、完成までに数年はかかるかな、・・・。
そのヒントはすべてここにある。



思えば、日本を離れて20年も経つので、ぼくが東京を舞台に小説を書くと、外国人が書いたような嘘くさい作品になってしまう。
日本と繋がっていたくて、毎日、ヤフーニュースを開くのだけど、芸能ニュースばかりで、ちんぷんかんぷん・・・。
いいことを言ってる政治学者っぽい人誰や、とか思って調べると、お笑いの人だったり・・・。いやぁ、浦島太郎とはよく言ったものである。全く、分からない。
最近、コロナで日本とも遠ざかってしまい、どんどん浦島化している・・・、ちょっとどうなるのだろう、と心配になる時がある。
ぼくにとって、日本は、もはや精神世界の支柱みたいなもので、きっとその根本にあるのは、今の日本ではないのかもしれない。
古き良き日本みたいなものを未だに引きずっているような・・・。



パン屋から出たら、たぶん、この通りでよく見かけるアジア系のお爺さんと交差点ではじめて、並ぶことになった。
前から、見かけるので、ベトナムとか、タイ人かな、と思っていたのだけど、横に立ったその白髪の紳士がぼくに、
「あの、こんにちは? もしかして、日本の方かな?」
と言われて、びっくり仰天。えええ、まさかの日本人だった。
「驚きました。日本の方なんですね。よくお見かけしていたけど、その、わかりませんでした」
「ぼくはマサというんだ」
「マサさん、・・・。あ、ぼくはヒトナリ」



日本人、中国人、韓国人などを見分けるのが趣味で、それは髪型、服装、歩き方、などでだいたい分かるのだが、この2,3年、テレビやゲームなどのせいで、髪型も化粧も似てきたので、見分けられなくなってきた。
香港の男性だけは後頭部を刈り上げている人が多いので、見分けられるけど、女性はもう全く、分からない。
それ以前に、マサさんのような年配、たぶん、80代かな、そのくらいの、長年、パリで生きた方は服装や立ち居振る舞い、見かけだけではもう判断が出来ない。
顔が変わって来るというか、なぜだろうね、環境のせいで、顔つきも変わるのかもしれない。ぼくだって、在仏20年だから、どう思われているだろう・・・。
「いつもすれ違っていたのに、挨拶もせず、失礼しました」
「なんも、そんなの気になさらないで。私もあなたが何人かわからなかった」
やっぱり・・・。ぼくは苦笑した。
ちなみに、今日のぼくの出で立ちは、灰色のブーツ、チェック柄のロングコート、茶色いハット、黒いマスク、だぼだぼのズボンを履いている。だぼだぼのズボンは膝の下からブーツの中に入っているから、競馬のジョッキーのような出で立ち・・・。笑。
お茶でもしませんか、と角のカフェに誘い、テラス席で、少し、話し込んだ。
滞仏歴60数年なのだそうだ。
ぼくが生まれた頃にはここにいたことになる???



「妻がイタリア人で、でも、十年前に先立たれ、今、一人だ」
「何をされているんですか? あ、ぼくはギターリストです」
最近、ギター弾きと説明するようにしている。作家というと、読みたいと言われるので、面倒くさいから、ギター弾きが、気楽でいい。
「ほー、ミュージシャンか、どうりで。私は貿易の会社をやってきた。でも、ご覧のとおり、もう引退をした。今は年金をもらい、死ぬのを待っている」
「日本には帰らないんですか?」
「親戚もいないし、それにぼくは妻と結婚した時、事情があって、フランス国籍を取得したからね、実はフランス人なんだ」
そういう人はたしかに、多い。
「そうですよね、半世紀以上フランスにいるわけですから」
「最近、日本は、どうだい?」
「ぼくもコロナで、全然、戻れていなくて・・・」
マサさんが遠くの空を見た。すると、そこに虹がかかっていた。
「虹だ」
「・・・マサさん、今度、うちに来ませんか?」
「お宅に?」
「鍋料理とかどうです? 日本酒もあります」
「おお、いいね」
「この辺の管理人のブリュノとかドラガーとか、世話になってる先輩たちを招いて、鍋パーティをやりたいな、と思っていたので、良ければ、ご一緒に」
マサさんは微笑んだ。来るとも、来ないとも言わず、静かにうなずいていた。
遠くの空は晴れている。

つづく。

退屈日記「たくさんのドラマが飛び交う我が町で、知り合ったご年配の日本人紳士」



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