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自分流塾「人生のソリューションは、自分の中にこそある」 Posted on 2021/09/27 辻 仁成 作家 パリ
事務所や関係する知り合いを介して、とある人から仕事の依頼を受け、この一月ほど、ぼくはその仕事をどうやって実行するか、周囲とも相談をしながら、考えていた。
ただ、もともと依頼された日には、いくつかの仕事が決まっていたので、それをまず、説明し、変更しなければならなかった。
幸いに、変更は可能だった。で、昨日、その依頼人から呼び出され、カフェでその仕事について話しを訊いたら、何か、歯切れが悪い。
「そうなると、辻さんの選択肢はこれとこれになります」と言われた。
ぼくは仕事を依頼はされたが、お願いした側ではないので、これは雲行きが変だな、と直観した。
事務所も全く、ぼくに丸投げの案件なので、ぼくが判断をしないとならない。
依頼人は最近知り合った人で偉い人だから、無碍にもできないし、ここでぼくが無粋に事を進めると、紹介してくれた人に迷惑がかかるのもいけない。
ぼくが今日、お話しをしたいのは、どうやって、このような複雑な立場の時に、自分の誇りを守り、相手を傷つけないか、という方法である。
仕事をすると必ずこういう場面に出くわすことがある。「人生あるある」である。
いつも、何もかもがスムーズというわけにはいかない。
カフェに着席をして、10分くらいの雑談のあいだに、依頼人は現状を説明した。
その中に、ぼくの居場所はほぼなかった。
ぼくはお茶を濁すような仕事はできない。さて、困った。
この程度、といってはならないけれど、最初に広げられた風呂敷が巾着くらいの小ささに萎んだうえに、逆にそのプロジェクトで邪魔な存在になるなら(ぼくは還暦過ぎのおやじだし、間違いなく扱いにくい年齢なのだ)、これはまず、自分のことを考えるとやらない方がよい、と思った。
さらには、彼はそれを切り出したいのだけど、いい人なので、困っているのが顔の端々に出ているのも、見てとれた。口元が細かく震えているし、だからか、笑顔が強張っている。
どんな時にも、冷静になって、世界や状況を見極めるのは大事である。じゃあ、この話しをどうやって無事に着地させるべきか、ぼくはぼくなりに、考えなければならなかった。
もちろん、笑って席を立つこともできる。でも、紹介者に迷惑がかかる。
面倒くさいものを引き受けた責任は自分にこそある。もう一人の自分が自分に、
「いいかい、これはなんでもかんでも引き受けたらいけないという教訓で、これまで何度も君が経験したことなんだよ。それをまた繰り返したということだ」
と言うのが、聞こえた。ぼくは、苦笑せざるを得なかった。
こういう時、相手を悪者にしたくなるのが人情だが、冷静にならないといけない。
相手のことをここで考えてあげることが出来た時に人というのは成長をする。
この人物は仕事を成功させたいのだ、その選択肢で悩んでいるので、こういう言い方になったのだ、とまずは相手を理解し、同時に、自分をなだめる。
自分の立場からだけで、世の中を見ていくと、世界を狭める。そこで相手の立場になる。
ぼくは、その人になってみよう、と思った。
『この大仕事を成功させたい。でも、辻さんに依頼してしまったけど、ここは辻さんじゃない。丸く収めたい。もしくは、最悪、辻さんには辞退してもらえると、もっとスムーズにことが進むのだ、でも、いろいろな人に仲介してもらい、ご本人もやる気になっているのだ、困った。なんとかなるだろうか』
或いは、カフェに向かう道すがら、彼は強張った顔で考えていたかもしれない。
依頼人の心の中で試行錯誤があったはずだ、と思った。どんな仕事や人間関係にもこういうことは付きまとう。それが世の中というものである。
その人の心を自分が理解するとき、人間というものは相手を許せるし、争いやわだかまりや不愉快を回避することも可能である。
相手の気持ちに立つのだから、自尊心を傷つけないでも済む。
善行をしたとも思えばいい。
ならば、ここで、もう一歩踏み出そう、とぼくはカフェに着席をしてから、12分後に思った。この人なりの人徳がぼくにそういう行動をおこさせている。
そこで、ぼくはその仕事が大成功するために何が必要かを考え、訴えた。「そうなると、ぼくがその仕事にかかわらない方がいいのです」と最後に言った。
ええ、そうなりますか、とその人は口走ったが、強く引き留められることがなかったので、彼は自分が傷つかず、思ったところに着地出来た、とどこかで安堵しているのが感じられた。
ぼくはもう一度、善行だ、と自分に言い聞かせる。
そして、彼の心の中がわかったら、これ以上、この問題に首を突っ込むべきではない。
「成功を祈っています。ぼくのことは気にしないで、今は前進をしてください」と言い残して席を立った。善行は暗い未来を駆逐する。
ぼくの中に湧き出た一瞬の不愉快は、席を立った時に、解消された。
時間には限りがある。一生は一度なのだ。先へ進め、ひとなり、と自分に告げる。
今日、「あまりの不甲斐なさに眠れませんでした」と依頼人からSMSが入った。
この人の苦しみを理解すること、そして、傷ついた自分を立て直すこと、そのためにスケジュールをあけてくれた方々に謝罪をし許しを請うこと、これら、全てをかいくぐることが出来た時、ぼくらは、人生のソリューションを手に入れることが出来る。
前を見る。次に行く。そして、いつか、ご縁は戻って来る、と信じることが大事だ。
「いい仕事が出来た」と今、ぼくは満足している。こういう決着の仕方も実は、大事な仕事の一つなのである。
posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家。パリ在住。1989年に「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞、1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野にも幅広く活動。Design Stories主宰。