JINSEI STORIES

滞仏日記「あの誘惑の甘い声が聞こえなくなってから早一か月、いったい何が」 Posted on 2021/09/08 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、最近、新学期がはじまったからだろうか、秋になったからか、何かが違う。
何が違うのか、ちょっと忙しくて最初は分かっていなかったのだけど、昨夜、トイレに行く途中、早い時間(なんと12時前)なのに、灯りの消えた息子の部屋を見て、あれれ、と思った。
というのは、もちろん、夏休み中は毎晩、朝まで電気がついていた。
多分、曲作りなどをして夜更かしをしていた。
それが12時前に灯りが消えて寝ているというのは、学校がはじまったから、当然のことだし、彼は専門の大学進学予備校にも通いだしたので、勉学に向かっているいい証拠ではあるのだけれど、しかし、なんかおかしい、様子が変だ。
・・・と今頃気が付いた父ちゃんであった。
つまり、半年ほど前までは、毎晩のように聞こえていたあの甘い女の子の誘惑の声が聞こえてこない・・・。
いつからだろう。そういえば、夏休みの中頃から、一切、あの声が消えてしまった・・・。あの子だけじゃない、女の子の声が一切、聞こえてこない。
トマとか、ウイリアムとか、アレクサンドルとか、幼馴染みの声ばかり・・・。
いったい、どうした?



けれども、聞くに訊けない問題でもある。
いくら「うざい父ちゃん」でも、そこは彼のプライバシーであり、立ち入ることのできない世界なので、見守るしかない。
いろいろと想像をしてはみる。
大学進学にこれからは集中したいのだ、と言っていたことを思い出した。
それはとてもいいことだけれど、その裏側で何が起きているのか、ぼくには分からない。
ここはつっこんではいけない部分でもある・・・。



今朝、早くに目が覚め、キッチンでコーヒーを飲んでいると、息子が洗面所で顔を洗っていたので、何か、声をかけなければと思い様子を見に行った。
顔を洗い終わった青年が振り返って、マグカップ持った父ちゃんの顔を見て、
「なに?」
と怪訝な顔で言った。
「いいや。そろそろ登校時間かなぁ、と思って」
と父ちゃん。うざいね・・・((´∀`))ケラケラ
「そうだよ」
「どう、最近?」
せいぜい、聞くことが出来たとしても、ここまで・・・。えへへ。



「普通だよ」
「普通か、それはいいね」
うざいな、という顔をされたので、くわばらくわばら、このくらいにしておこうか・・・
「じゃあ、いってらっしゃい。あ、何時に戻る?」
「予備校があるから、遅い。19時かな」
「じゃあ、パパはちょっと夜に、仕事関係の人と会ってるから、夕飯、用意しておく」
「うん。いってきます」
そう言い残し、息子は出かけて行ったのである。
息子の洗面所を覗いた。マスクとか、綿棒とか、ひげ剃りとか、歯ブラシとかが散乱していたので、コーヒーを置いて、軽く掃除をした。
基本は洗濯もトイレ掃除も自分でやらないとならないルールが辻家にはあるのだけど、受験生だし、全部やらせるのも可愛そうだから、自分に余裕のある時は、こっそりとトイレ、ふろ場の掃除をやっている。
もちろん、垂らしたおしっこなどは父ちゃんが拭いて清潔を保つようにしてやっている。
整髪剤とかメンズ用のいろいろが並んだ息子の洗面台・・・。
いっぱしの男のこだわりがすでにある。
そういえば、最近、香水をつけなくなったな。
前は、あいつがぼくの前を通過すると、ぷーーーーん、と匂っていたけど、今はしない・・・たしかに、季節は、秋、・・・
「秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し」by ポール・ヴェルレーヌ。



マグカップをもって、息子の部屋をチェックに行った。覗いた感じだと変わりはなかった。割と綺麗に整頓されている。
ベッドの前に、靴下が脱ぎ捨てられてあった。拾った。
穴の開いた方の靴下だ、これはもう、捨てた方がいい。
しかし、勝手に捨てて怒られないだろうか? 
新しい靴下を買ってあげたので、もう、いいだろう。
でも、五年も履きつぶした靴下は、息子を支えた縁の下の力持ちでもあった。
捨てるに捨てきれないのかもしれない。気持ちはわかる。
しかし、人生というものは先へ進まないとならないのだ。
よし、これはパパが捨ててやる。ぼくはそれを握りしめて、息子の部屋を出た。
自分の部屋のゴミ箱の中に、それを、そっと放流した。さようなら、五年間、ありがとう・・・。身に染みて、ひたぶるに、うら悲し・・・。



人生というのは出会いと別れの連続である。友だちもどんどん入れ替わっていく。それが青春という時代であった。
新学期になり、クラスが変わり、新しい仲間たちとの出会いもあり、息子もきっとそういう青春の入れ替わりの一時期にいるのかもしれない。
もしくは、大学に合格するまで、自分の中でいろいろと厳しく人間関係を一時的に制限しているのかもしれない。
いずれにしても、お母さんのような気持ちで、いや、厳父の気持ちで、見守ってやりたい。
息子を送り出してから、ぼくは家の掃除をやった。
家中の窓を開け、風通しをよくし、掃除機を抱えて、家の隅々の埃を吸い込んでいった。
気分を刷新して、この新学期、新しい気持ちで挑んでもらいたい。
せめて、父ちゃんにできることは、この古びたアパルトマンの掃除くらいなのだから・・・。

滞仏日記「あの誘惑の甘い声が聞こえなくなってから早一か月、いったい何が」



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