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ポルティコのある景色 Posted on 2016/10/27 荒川 はるか イタリア語通訳・日本語教師 イタリア・ボローニャ

ポルティコのある景色

城壁で囲まれていたボローニャの旧市街は、徒歩での移動にちょうどいい大きさで、少し郊外に住む私は城壁の外に車を止めて中心街まで歩くのが好きだ。中世からの街並みが残り、建物は煉瓦色やクリーム色から赤茶へのトーンで調和がとれていて、見るものに落ち着きを与える。
 
城壁から街の中心のマッジョーレ広場までは歩いて15分ほどだろうか。歩道には屋根と柱列からなるポルティコと呼ばれるポーチが続き、歩行者はアーチ状に連なった天井の下を歩く。
ボローニャの町歩きが心地よいのはこのポルティコに守られているからでもある。悪天候でも中心街は傘を持たずに歩けるし、真夏の陽射しも避けられる。それに何よりその形状が美しい。
 
その外観は建物の外壁と同色で柱と柱の間はアーチ状のものが多く、この町の景観に独特のフォルムと人々を包み込む温かい趣を与えている。日中は柱列が歩道に光と影のコントラストを描き、陽が落ちるとポルティコからアーチ型に溢れだす柔らかな電灯の灯りが優雅だ。霧に包まれた夜などはあまりに幻想的である。

ポルティコのある景色

町の至る所に延びるポルティコは、旧市街だけで全長約38km、城壁外のものを合わせれば53kmに至り、ボローニャは世界で最もポルティコが多い町ということになる。

その起源がまたこの町らしい。
ヨーロッパ最古の大学の原型が確立しつつあった11世紀中頃のボローニャには、イタリア中ひいてはヨーロッパ各地から学生や学者達が集まり、城壁に囲まれたこの都市に新たな居住スペースを作りださなければならなかった。そこで建物の2階以上のフロアの床の梁を伸ばして張り出しを設けて対処したが、張り出し部分をさらに広げると梁だけでは足りず、柱で支えるようになった。これがこの町のポルティコの始まりだ。

必要から生まれた構造であったが、雨風を避け、夏には刺すような陽射しから人々を守るこの空間には人々が集い、商業活動の場と発展し、通りには活気が増した。
1288年には新築建造物にはポルティコを設け、既存の建造物には増築するようコムーネから通達が発せられ、町全体にポルティコが広がっていった。こうしてボローニャの生活空間の一部として市民権を得たのだ。

ポルティコのある景色

当初は木造りのものが中心だったが、次第に煉瓦造りや石造りに移行していった。その構造も時代とともに変化し、張り出しを支えるだけの簡素なものから、建物と調和したものとなり、より美しい曲線を描くようになっていった。
日常の中に実用性だけではなく美を求めることで有名なこの国。ポルティコにも装飾を凝らし、中には柱やアーチにレリーフを施したもの、天井に絵が描かれているものが造られた。

17世紀から18世紀にかけては、階級を超えた全市民の貢献によりボローニャ郊外の丘の上のサンルーカ聖堂への巡礼の道にポルティコが建設された。
当時サンルーカのマリア様への祈願が叶うと、祈りながら膝をついて巡礼の道を上る習わしがあったのだ。巡礼者達を雨から守り優しく迎えてきた世界最長を誇るこのポルティコは、今では巡礼者に加えてウォーキングをする人々の姿が絶えない。

ポルティコの持つ温かみは、ボロニェーゼ達の気質と重なるところがあると思う。歴史的に各国からの学生達を受け入れ、新たな思想や発見の土壌となってきたこの土地の人々は人懐こく寛大だ。たとえ言葉が伝わらなくても、心で人を迎える器量を持っている。それがこの土地の居心地の良さに繋がっているのかもしれない。

ポルティコのある景色

Posted by 荒川 はるか

荒川 はるか

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Haruka Arakawa
イタリア語通訳・日本語教師。東京生まれ。大学卒業後、イタリア、ボローニャに渡る。2000年よりイタリアで欧州車輸出会社、スポーツエージェンシー、二輪部品製造会社に通訳として勤める。その後、それまでの経験を生かしフリーランスで日伊企業間の会議通訳、自治体交流、文化事業など、幅広い分野の通訳に従事する。2015年には板橋区とボローニャの友好都市協定10周年の文化・産業交流の通訳を務める。2010年にはボローニャ大学外国語学部を卒業。同年より同学部にて日本語教師も務めている。