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自分流塾「ぼくはなぜ、私や俺ではなく、≪ぼく≫なのか?」 Posted on 2021/08/19 辻 仁成 作家 パリ

男同士の会話の場合が多いのだけど、いや、ほとんどがそうかもしれないけれど、誰かが「あの、自分はこう思います。それは・・だから」みたいな言い方をする。
けっこう、体育会的なものいいで、可愛いな、と思うけど、ちょっとうるさいな、と思うこともある。
「自分がやりますから」とか「自分にやらせてください」とか「自分、そういうの好きじゃないです」とか、この時の自分は「私」とか「ぼく」ではダメなのだろうか、何が違うのだろうか、とよく思う。
ある種の強調文のようなものだろうけど、なぜか、正義感の強い熱血な純情みたいな印象を伴う。
その時、自分を凄く強く存在させることで、彼(もしくは彼女)は自分の意思を協調しているのだ。



自分を協調するというのはつまり、そこに「私はこう思います」だけでは足りない何かがあるということだろうか? 
そもそも、「私は」とぼくらがいう時、その「私」はどこからやってきたのだろう。
「私」と訴えている段階で、それは実際の「私」ではなく、ある周辺の中の自分というものが浮かび上がる。
相手や世界があるから、生まれる「私」があり、私という主張は相手なくしては成立しない主張なのかもしれない。
なので、「自分は」という時、その人は、自分を強く世界に対して認めさせたいのだろう。



ぼくは、ずっと「ぼく」を主語(一人称の人代名詞)にして語っている。
エッセイもほとんど「ぼく」だし、日常会話も「ぼく」なのだ。
「ぼく」がちょっと年齢的に違和感を覚えるのかな、という懸念もあるけど、きっと死ぬまでぼくは「ぼく」を使い続けるだろう。
皆さんは、どういう一人称人代名詞を使われているだろうか?
「おいら」という人も男性には結構いる。ぼくも大昔「おいら」と書いていた時期もあるけど、何か、衒いというのか、ぼくの場合、気恥ずかしさが出て、ある日、やめた。
たまに「私」と書いた時期もあったけど、かしこまりすぎて、自分の場合「私」じゃないな、と思うようになり、「ぼく」になった。
時々、自分を強調するとき、「俺」を使うこともあるけど、滅多にない。
「自分」と言い出すこともあるけれど、周りに飲み込まれてあわせるような感じで使う以外には使わない。
やはり、ぼくの場合、「ぼく」が圧倒的に使用率は高い。



しかも、ぼくの場合、漢字の「僕」「ボク」は滅多に使わず、ひらがなの「ぼく」が多い。昔の作品を読むと、「僕」だったけれど、ここ最近は「ぼく」なのだ。不思議である。
なんとなく、ひらがなの「ぼく」は気負わない自分と向き合える気がしたのと、年齢的には幼児っぽい「ぼく」に違和感を覚える時もあるけど、自然体な感じがするので、結局、「ぼく」に落ち着いている。
ただ、確かに目上の大先輩と話す時は「私」が登場することもあるが、借りてきた猫のようで、そぐわない。
「私」や「自分」や「俺」や「おいら」は自分には似合わなかったのである。



しかし、その「ぼく」でさえも、「ぼく」という時、それはすでに外の世界の中での自分の立ち位置をその人代名詞に多少映り込ませているようだ。
英語だと「I」だし、仏語だと「Je」ですむのに、面倒くさいなぁ、と思いながら、ぼくは「ぼく」を貫いている。
しかし、ぼくという代名詞は辞書によると、やはり、目上の人にはあまり使わない自分を指す一人称の人代名詞と書かれてある。
男性のしもべのことも僕なので、下僕とか公僕とか従僕などという意味もある。
幼い男の子に向けて呼びかけの言葉で使うことも多く、複雑な感じを受ける「ぼく」だけど、大事なことは「ぼく」を選んだということだろう。
ぼくがぼくであるためにまず大事なことは、「ぼくは」と言い始めることであり、人はみんな自分が選んだ人代名詞の「私は」「おいらは」「俺は」ではじめればいいのだ。
それは生きることの強調形ということであり、他者に自分を伝える手段であり、そこには生きる前向きな自信が宿っているということなのだと思う。
自分なりの一人称の人代名詞を選んだあなたは、その自分をもって、他者と果敢に向き合っているということになる。

自分流塾「ぼくはなぜ、私や俺ではなく、≪ぼく≫なのか?」



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辻 仁成

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Hitonari Tsuji
作家。パリ在住。1989年に「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞、1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野にも幅広く活動。Design Stories主宰。