JINSEI STORIES
滞仏日記「日々をくいつないでいくための最良の方法」 Posted on 2021/08/09 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、何で、日々が辛くなるのだろうと、今日、またうどん屋の野本とサンジェルマンデプレのカフェ、ボナパルトでお茶をしながら、考えていた。
野本は相変わらず、何を言ってるか分からないのだけど、この人はいてくれるだけで今はありがたい。←どういう関係???
昨日のツイートにも書いたけど、誰か安心できる人間がいると気持ちが楽になる。これは真実だ。
掃除をしていたら、どう? と野本からSMSが入った。
この人の「どう?」は「暇なら軽く茶するか?」である。家にいても煮詰まるだけだから、息子にサクっとサンドイッチを作って、出かけることにした。
カフェの奥まった席で日本人のおやじ二人でお茶をした。
奥さんでも誘ったら、と提案をしたら、そそくさと奥さんに電話をかけはじめた。
「あ、あの、俺な、今、ひとなりと一緒なんやけど、茶とか、どうかなっていう話しになったんやけど、あなた、どうします?」
ちゃんと日本語になっていて、ぼくは驚いた。顔つきが、いつもの野本じゃない。
「あ、あ、あ、そう、はい、じゃあ、はい」
電話を切った。
「なんか、今、犬の散歩中だから、なし」
笑。なし・・・。
「な、あの、ええと、ひとなり、それ、髪、黒いけど、染めてへんのか?」
「え? 俺はまだなんとか黒いな。白髪出てきたけど、将来ロマンスグレーかな」
「ほー、染めてないんか。そりゃ、希望がいっぱいやな」
希望がいっぱい???
ええこと言うな、と思って、嬉しくなった。
話しを戻すけど、何で、日々がつらくなるのか、というと、毎日を食いつなぐ楽しみを持ってないからだ、と思った。
何か一つ、小さなことでいいのだが、明日の楽しみというのを持てば、人間今日から明日へ希望のバトンを渡せるのだ。
それで、野本に訊いてみた。
「毎日を乗り越えるのは大変じゃないか。どうやったら人間は、毎日、楽しく生きていけると思う?」
「え? あ、そうやね、ええと、ま、それは、だから、ほら、人間って、ま、なんていうのか、あれやな、だから、あの、ほら、ま、ま、な、ちょっと」
「ちょっとナニ?」
「ワインでもたのまへんか?」
そこかよ。笑。
ぼくらはワインを頼んだ。
しかし、たしかに、うどん屋経営で大変な野本なら、一杯のワインとか、番組制作に追われるプロデューサーのLさんはヒョンビンさんのファンだから、彼のことを考えるとか、福岡済生会病院の大倉先生は脳外科医だから人の命を預かるストレスから逃げるために大好きなプラモデルを作るとか・・・。
昨日、大倉先生から、自慢のプラモデルの写真が届いた。
Lさんからはヒョンビンさんのスタンプが来た。
なんですか、これ、と言ったら、「愛の不時着のスタンプ」だって・・・、笑。
野本が美味しそうにワインを飲んでいる。幸せそうで何よりであった・・・。
「最近、息子に泣かされたんで。この一週間で4キロ体重が落ちたよ」
ぼくが愚痴をこぼすと、
「俺もよく泣く」
と野本。
「泣くの?なんで?」
「あれ、ほら、うちの、娘たちに、泣かされる。一緒だよ」
ぼくらは笑いあった。
こういうたわいもない会話? 人生相談? で、気分も紛れる。
こんなおやじの野本でも、娘たちに泣かされてるんだ。息子に泣かされるのは普通だな、と思った。
ぼくらは一杯のワインで、一時間くらいお茶(?)をし、別れた。
帰り道、パン屋でパン・オ・レザン(レーズンパン)を買った。
ここのが、好きなのだ。
のんびりと歩いて帰りながら、ぼんやりと考えた。毎日を乗り越えていくために、人間は、楽しいこと、好きなこと、嬉しくなること、をどんどん、探していくべきだ。
やらなければならない仕事とか家事とかはもちろん大事だけど、それだけをやって、幸せになれる人はいない。
好きなことを追いかけることは、ちっとも責められることじゃない。
短い一生なのだ。人に迷惑をかけなければ、何をしてもいい。友人の寿司職人のT君は、毎日、20代の子たちとゲームをやっているという。
「楽しいの?」
と訊いたら、
「やっぱ、めっちゃ楽しいですよ。現実とは違います」
という返事だった。T君は46才である。今はコロナで寿司屋の経営も大変なのだ。
ゲームを通して、日本の若い子たちと遊べることは、彼にとっては、現実を忘れさせてくれる最高の道楽なのであろう。
「出会い系ですよ。ゲームって」
「そうなんだ」
「ぼくはパリにいるから会ったりはできませんけど、やっぱ、仮想の世界で仲良くなり、現実で結婚する人とか、いるんです」
「へー」
「だって、現実つらいですもん」
脳外科医の大倉先生は人の命を預かるだけにそのストレスはぼくらの想像をはるかに超える。
僅かなミスで患者さんが死んでしまうのだから、彼にとって現実は残酷な世界でもある。
同年代の先生もぼくにとっては大事な友人で、大倉先生からはほんとにしょっちゅうプラモデルの写真が届く。
それがかなり、精密なプラモデルで、脳手術で相当に細かい仕事をしてきた後に、精密なプラモデルを作って心が癒されるというのは、ぼくにはかなり謎だけど、だからこそ、なんとなくだが、脳外科医の心労が垣間見える気がした。
彼がそれで癒されるんだから、それしかないのだろう、と思った。
そして、ぼくの日々を食いつなぐための毎日の楽しみは、たとえば今日だったら、パンオーレザンということになる。クロワッサンの時もある・・・。
今、この日記を深夜に書きながら、明日の朝が楽しみで仕方ない。
パンオーレザンが食べられるかと思うと、頑張ろうという気持ちになる。
明日が待ち遠しくてしょうがないのである。
こういうささやかな希望というか、幸せを笑っちゃいけない。
ヒョンビンさんのスタンプや、プラモデルや、一杯のワインや、ゲーム、コーヒー、それら実現可能な日々の楽しみを持つことだ。
実現できるかどうかわからない長期的な夢を持つことも大事だけど、実現出来るということが日々には前進の力を与える。
満面の笑顔で確実に喜びをゲットしながら、人生を前進させていこう。
さてと、明日の朝を楽しみに待ちながら、筆を置くことにする。
この紙袋の中の、パン・オ・レザン、やばいです!