JINSEI STORIES
ヴェネツィア日記「20年ぶり、水の都ヴェネチアに父ちゃん、降り立つ」 Posted on 2021/07/11 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、機内の窓の下にアドリア海の青い海に点在する島々が見えた。
ぼくは思わず、身を乗り出し、携帯で撮影をはじめた。
1999年のヴェネチア映画祭、批評家週間に初監督作品「千年旅人」が正式招待されて以来の来訪であった。
ああ、凄い。綺麗だ。
映画の冒頭の始まりのような映像が眼前に広がった。
飛行機がサンマルコ空港に着陸するまでの数分は、不意に訪れた期待と興奮に包まれ、まずは1999年当時の記憶が走馬灯のようにぼくの頭の中のスクリーンで揺れ動いた。
20年以上の歳月が流れ、いったい水の都がどのように変貌しているのか、そこでぼくを待ち受けているものが何か、誰と出会うのか、およそ、遮るもののない期待しかなかった。
パリを出る時も、イタリアに入る時にも、コロナの検査もチェックもなかった。
熱センサーでぼくの前を歩く紳士が呼び止められていたくらいだった。ぼくはワクチン・パスポートを持っているので、欧州内での移動は自由にできる。
水上タクシーのチケットを買い、空港のはずれにあるタクシー(ボート)乗り場までいくと、待ち受けたドライバーに案内され、タクシー・ボートに乗って、いよいよヴェネチアへと向かった。
高速で走るボートの背後に出来る水しぶきと果てしなく広がる青空がぼくを大歓迎しているような感じに見えた。
懐かしい風景だった。ボートは新しかったが、それ以外は昔のままだった。
「何しに、来たのですか?」
船長? ドライバー? さんが言った。
「ヴェネチアの取材です」
ぼくはそう答えた。
「なんの取材? 映画? テレビ? 新聞?」
「いえ、小説ですよ」
「小説かぁ。ヴェニスに死すみたいな」
「いや、ヴェネチアで生きる、みたいな・・・」
船は有名な迷路のような運河の中を移動した。
観光客を乗せたゴンドラとすれ違う度、太鼓橋の下を潜る度、ぼくに懐かしい幻の記憶をよみがえらせるのだった。
ボートはヴェネチア大学の近くでぼくを下ろした。
文学仲間のアンドレアさんと待ち合わせている。ぼくはヴェネチアを舞台に次の作品に着手する予定で、そうなると「冷静と情熱のあいだ」以降、久しぶりのイタリアが舞台の作品となる。
いつか、ヴェネチアを書きたかった・・・。やっと実現する。
ちょうど、今、イタリアで拙著「愛のあとにくるもの」が翻訳中なので、いろいろな人との出会いがこれから頻繁になりそうな予感があり、・・・。
ともかく、ということで、新作小説の取材が、すでに始まったのだ。
まず、今回は、2021年の今のヴェネチアを目に焼き付けることから、そして、アンドレアに協力してもらい、作品の中核になるいくつかの主題を引き出すことにあった。←企業秘密。笑。
ちなみに、アンドレアとはボローニャ大学に招かれた文学フェスの時に知り合った、ぼくの読者の1人で、同時にこちらの大学の先生なのだった。
「ボンジョルノ! シニョール・ヒトナリー」
「ボンジョルノ! アンドレアー」
※ ヴェネチア大学の入り口。
ちょうど、昼時だったので、彼が良く行くという大学近くにあるサンドイッチ屋に向かった。
ぼくらはビールとサンドイッチを次々胃に流し込んだ。
これが、びっくりするくらいに美味しいサンドで、写真をちょっと見てほしい。
具の多いこと、種類も豊富で棚がもう一つあり、数十種類のサンドがずらっと並んでいる。なんで、こんなに具を入れるの?と訊いたら、その方がお得だし、ダイナミックで、おいしいだろ、イタリア的だ、とアンドレア。
言えてる。でも、ダイナミックというよりもすっと口の中で溶けるような、今まで食べたこともないサンドイッチの触感だった。
あまりに美味しく、ぼくは、ツナとラディッキョのサンド、ローストビーフとルッコラの、ハムと卵の、イタリア野菜のサンドと欲張って、四つも食べて、動けなくなった。
アンドレアと打ち合わせをし、明日、ヴェネチア大学の見学の後、呑もうか、と約束して別れたぼくは、ホテルを探しながら、島の中を歩き回った。
もちろん、歩きながら、作品のイメージを構築していく。
こういう話しにしたいというプロットがあるわけじゃない。
でも、歩きながら、カメラで撮影しながら、ぼくの頭の中に自分なりのヴェネチア物語を作っていく。
不思議な仕事である。これで生きてきた、のが本当に不思議・・・
とはいいつつも、仕事と思ったら書けるものじゃない、創作なのである。
ゴンドラが運河の向こう側からゆっくりと近づいてくる。
セーヌの光りと影とはまるで異なる。ここはどこもかしこも、深緑の歴史的な流れ、アドリア海の緑の血管のような水脈のうねりを感じる場所・・・。
光りの角度で不思議な模様が川面に消えては現れる。それをじっと眺めながら、ぼくは主人公のストーリーを創造していくのだった。
つづく。