JINSEI STORIES
退屈日記「ぼくが暮らす館の地下で生きるひとりの不思議な人物について」 Posted on 2021/06/12 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、ぼくが住む館に地下室(たぶん、英国などにある半地下の部屋)があり、そこに住んでいる不思議な男がいる。
ここの建物の一階にすむフランケンさんとベルナデッドさんの息子である。
彼はどうやら引きこもりで、すでに20年とか、30年とかこの館の敷地内から出ずに一人で生きているようだ。
詳しいことは知らなかったけど、昨日、ソファを運んでくれた下のカイザー髭とハウルの魔女がお茶を飲みながら、教えてくれた。
カイザー髭はおしゃべりなおじさんで、知ってることは何でも言葉にしたがるので、気を付けないとならない、笑。
ハウルの魔女は黙って夫の話しを聞いている。いい夫婦なんだな、というのがだんだん、分かってきた。
ただ、ちょっとおせっかい焼きで、おしゃべりで、なんでもいっちょ噛みがスキなおじさんというのが、たまに傷。
あまりぼくの素性を明かさない方がいいかもしれない。
ぼくは静かに生きたい、人と関わればいい時もあるけど、もめ事も多くなるので、余生をのんびり暮らすためには、適度な距離感が大事であろう。
とにかく、カイザーさんが教えてくれた。というか、聞いてないのに、全部喋ってくれた。地下で暮らす不思議な男の物語・・・。
プルースト君は子供の頃にパリでイジメを受けた。(プルーストというのはぼくがつけたあだ名。作家、マルセル・プルーストにそっくりなのである)
というのは彼はかなり内向的な人間なので、そこまでひどいイジメじゃなかったのだけど、(フランス人はカラッとしているので陰湿なイジメとか集団イジメというのはあまりない)、しかし、ナイーブなプルースト君は傷ついた。
そして、登校拒否、家にこもるようになった。
案じたフランケンが彼をこの辺の学校へと移転させたのだけど、そこでもうまくいかなかった。
そのまま、彼はこの土地に居座ることになる。
地下室はもともとカーブ(ワイン庫、倉庫)だったが、プルースト君が長い年月をかけて、住めるような空間に造り替えてしまったらしい。空気清浄機まで設置して・・・。
カイザー髭もハウル魔女も他の住人たちもその地下室に入った者はいない。
フランケンとベルナデッド曰く、米軍の秘密基地のようになっている、ということだった。??? 想像が頭の中で膨らむけど、行くつもりはない。
フランケン夫妻はすでに80代に手が届くかという年齢、自分たちが死んだ後、この子がどうやってここで生きていくのかを心配している。
今は食材などをまとめて購入し、分け与えているのだという。
プルースト君には兄と姉がいて、その人たちがすでに成功をしているので、彼らがきっとプルースト君をサポートしていくのだろう、とカイザー髭が力説をした。
その兄と姉も時々、家族でやってきて、滞在している。いい人たちだ。さわやかで、笑顔のパリジャンたち・・・。
「実は、時々、配管を叩く音がしているのです」
ぼくがカイザー髭に打ち明けた。
「どうも、モールス信号のような感じなんですけど、それはもしかして、地下室で暮らす彼の仕業なんですかね」
すると、ハウルの魔女が、あの顔で、ぼくに迫ってきた。ぎゃああああ、に、似てるー。ハウルの魔女だぁ。毎回、宮崎駿さん的世界観に、ぼくはドキドキしてしまう。
「そうよ。私たちも聞いたことがある。あれはモールス信号なのね?」
「なんで、ムッシュはわかるんだい?」
「あ、ぼく、アマチュア無線技師の資格持ってました。簡単なモールス信号なら解読できます」
「ほー、で、あいつは何をメッセージしているのかな?」
「たいしたことは発信してないですけど、ボンジュールとか、メルシーとか」
「寂しいのかしら」とハウルの魔女。ちょっと気の毒そうな顔をした。
「ぼくがここで歌った後とかに、トンツー、トントンがはじまるんです」
「君の歌声は、配管を伝ってほぼ全館に響き渡っているからねー」
「マジですか?」
ハウルの魔女がぼくに顔を近づけ、ガラガラの声をひそめて、
「まじよー」
と言った。
ぎゃあああああああ、近づくなぁ・・・・・
ぼくは午後、寝室の窓から裏に広がる、うっそうとした木々に囲まれたまるで白雪姫に出てきそうな森のような庭を見下ろしていた。
館と繋がる藁ぶき屋根の小屋があり、そこが外の世界と通じる出入口のようだ。残念ながら、ぼくはアクセスできない。一階の住人と、二階の住人が権利を持っている。
プルースト君は地下室とその庭が生活空間のようで、庭師のようなことをして、住人たちが払う管理費から少しお金を稼いでいるようだ。
時々、プルースト君と思われる男性が、植物の手入れをしているのが見える。
伸びすぎた薔薇を切ったり、雑草を抜いたり、壊れた柵を作ったり、カモメに餌を与えたり、ん?
そうか、あいつがカモメに餌を与えるから、うちの屋根にカモメたちが大勢暮らしているのか・・・。
不思議な男である。何を考えながら、自分の人生と向き合っているのだろう。ぼくが歌った後に、
トンツー、トンツー
と配管がなるのは、彼にとって拍手のような意味あいがあるのかもしれない。
うっそうとした館にも太陽が平等に光りを降り注いでいた。ぼくは彼がここで生きてきた半生を想像した。
つづく。