JINSEI STORIES

滞仏日記「ぼくは再び田舎のアパルトマンに戻った。すると、怪しい合図が」 Posted on 2021/06/08 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、朝、息子の一週間分の食事をいろいろと作って、冷蔵用、冷凍用に小分けしてから、パリを離れて田舎のアパルトマンへと向かった。
この期間、途中にパリのセーヌ川クルーズライブを挟んだので、実に2週間ぶりの田舎である。
本当はずっと田舎にいたいのだけど、息子の食事問題がやはり大きく、一週間がマックスかな、と思う。
彼には最低限の料理の仕方は教えてあるが、受験生だし、育ち盛りだし、やはり、そばにいてやりたい。
来年から大学生なので、それまでは田舎との頻繁な行き来が続きそうだ。
そして、思っていた以上に自分は田舎暮らしに向いてることもわかってきた。
なにより空気がおいしいこと、人と接しないで済むこと、ネットさえあれば仕事はできるし、食べ物は美味しいし、ただ、懸念材料と言えば、そうだ、1860年建立の古い建物に棲息するあの住人たちである。



ぼくの下の階のご夫妻は、つるんと上向きのカイザー髭が特徴的なオールドスクールの紳士、そして、ハウルの動く城に出てくる荒地の魔女にそっくりなマダム。
その下の階にはフィリップ殿下とエリザベス女王のごとき矍鑠としたご夫婦が暮らしている。
その一つ下の階の方々にはまだお会いしたことがないが、地上階で暮らしているのがフランケンシュタインに似ているムッシュ・フランケンとシラク元大統領の奥さんベルナデッドにそっくりなご高齢のご夫婦。
そして、建物の北側の半地下の、たぶん、地下室だと思うのだけどに棲息するフランケンとベルナデッドの息子、作家のマルセル・プルーストにそっくりな引きこもりの中年さん、というすさまじい布陣なのだが、彼らは1860年から続く歴史的な管理組合のメンバーで、当然、ぼくも住人だからそこに入らないとならないのだけど、何かその組合は結束がもの凄く強いらしい、と脅され続けている。
とにかく、住人の皆さんは、「管理組合に入ることがとっても大事だ」と言い続け、ぼくを脅かすのである。
さて、ぼくは車を建物の近くの小道に止め、まず、見上げた。誰かがいるかどうか、を確認するためである。
丘の上の歴史的建造物は、ハリーポッターに登場してきそうな魔女の学校のように聳えていた。

滞仏日記「ぼくは再び田舎のアパルトマンに戻った。すると、怪しい合図が」



鉄扉を押し開け、敷地内に入った。前回と大きな変化が起きていた。エントランス周辺に薔薇が咲き乱れていた。誰が育てているのか分からないが、見事な薔薇であった。ぼくは薔薇が大好きなので、ちょっと嬉しかった。えへへ。

滞仏日記「ぼくは再び田舎のアパルトマンに戻った。すると、怪しい合図が」



地球カレッジ

2週間ぶりのアパルトマンは主人の帰りを静かに待っていた。ここを出た時と何も変わらなかった。
荷物やギターを床に置き、ぼくはスリッパに履き替えた。
まだ、家具らしい家具が何もないので、がらんとした真っ白な空間が広がっていた。
まずは近くの村までワインや食材を買いにいかないとならない。
ぼくは天窓をあけて梯子を上り、屋根裏にいるかもめたちに挨拶をしに出かけた。国王としての義務であった。※もっとも屋根に上ることは禁じられているので、天窓を少しあけて、覗いただけである。
「諸君、君たちの国王が帰ってきたぞ。今日からしばらくここに滞在するから、護衛を頼むよ。悪霊たちが寄り付かないように」
屋根裏には二羽がいただけだったが、横目で国王を見ていた。冷たい視線である。一羽はぼくに背中を向けてしまった。
ぼくは途中の高速で買って食べたバゲットの残りを、少しだけ、国民に分け与えておくことにした。千切ったバゲットをかもめたちの視線の先で揺らしてから、
「みなのもの、遠慮せず食え、これがパリの名物、バゲットじゃ」
と伝えた。

滞仏日記「ぼくは再び田舎のアパルトマンに戻った。すると、怪しい合図が」



掃除機をかけ、ベッドメイキングをしてから、仕事道具を「哲学の一畳間」と名付けた階段の中二階に作った仕事場の小さな机の上にセッティングした。
ギターをケースから取り出し、2,3曲歌の練習をしてから、パソコンを開いた。
日本から仕事のメールが数本入っていたので、それに答えていると、どこからか、リズミカルな合図が届いた。ん?
ぼくは立ち上がり、音の方へ向かった。耳を澄ませると、音は風呂場から聞こえてくる。
場所を突き止めた。壁の中の配管を誰かが叩いているに違いない。排気口の蓋を外し、中を覗き込んでみた。
ツートントントン、ツーツーツー、ツートン・・・
えええええ、まさか、と思った。
「もしかして、これは、モールス信号じゃないか」

滞仏日記「ぼくは再び田舎のアパルトマンに戻った。すると、怪しい合図が」



実は、ぼくは小学6年生の時に電話級アマチュア無線技士の資格を取得している。北海道で、当時、最年少での合格者の一人であった。
その時、ぼくに与えられたコードネームは、JA8PGZである。(じぇいえーえいとぴーじーぜっと)
電信級の試験は受けなかったが、一応、国際モールス信号の勉強はずいぶんとやった。
なんでも出来るみたいだが、いやー、それほどでもー。(しんのすけ風)



それがモールス信号であるならば、ぼくは解読できるはずだ、と耳をすませた。
国際モールス符号というのがあり、短点(トン)と長点(ツー)を組み合わせて、アルファベット・数字・記号などを表現している。
長点1つは短点3つ分の長さに相当する。各点の間は短点1つ分の間隔をあけなければならない。たとえば、英語のEは(トン)、Tは(ツー)となる。
ぼくは耳をすませた。やはり、これは、たぶん、モールス信号であった。ぼくには、そう聞こえる。しかし、誰が、誰に向かって、このメッセージを送っているのか、しかも、こんな田舎の屋敷の中で・・・。
ツートントントン
ツーツーツー
ツートン
トンツーツーツー
ツーツーツー
トントンツー
トンツートン
それが謎だったが、ともかく、どういうメッセージなのか、解読してみることにした。聞き取りにくい箇所もあるので、何せ、配管を伝わってくる音だから・・・
何か、短い言葉を繰り返し、送信しているようで、ぼくはそれを携帯に録音し、解析した。すると、この配管をたたく音が、ボンジュール、とメッセージを送っていることに気づくのである。100%間違いない、とは断言できないけれど、でも、ぼくの知識と経験からすると、そう、聞こえる・・・
「ボンジュール???? いったい、誰に?」
B ツートントントン
O ツーツーツー
N ツートン
J トンツーツーツー
O ツーツーツー
U トントンツー
R トンツートン



「というか、誰かいるじゃん、今、この屋敷の中に」
ぼくは驚いた。まさか、とは思ったが、これはやはりモールス信号だったのだか・・・。ぼくは一生懸命、この謎について考えた。考えられるのは、ここの住人の誰かが、ここの誰かに向かって、モールス信号を送っているということになる・・・。それは、なぜ?
カイザーか? あるいはフィリップ殿下、あるいはフランケン、もしくは地下にいるプルースト・・・。どれもあり得る、と思ったし、それよりもこれが誰に向けてのメッセージなのか、が気になった。まさか、ぼくにではないよね? とにかく、相変わらず、不気味な屋敷である。配管を叩く何者かはこの建物内にいる誰かに向かって、ボンジュール、とモールス信号を送っているのだから・・・ボンジュール?
こんにちは。
ちょっと、怖くなった。モールス信号なんて、今時、分かる人間はいるのだろうか? ゲ、いるじゃないか、今、ここに一人、ぼ、く、が・・・

つづく。

滞仏日記「ぼくは再び田舎のアパルトマンに戻った。すると、怪しい合図が」

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