THE INTERVIEWS
ザ・インタビュー「幸福度世界一に輝く、フィンランドの幸せな生き方」 Posted on 2022/10/27 辻 仁成 作家 パリ
ぼくらはよく幸福という言葉を口にする。けれども、これは実に漠然とした曖昧な言葉でもある。フィンランドという国は幸福度世界一に4年連続選ばれている。しかし、どうして、フィンランドが高く評価されてきたのか、フランスで暮らす日本人であるぼくにはわからない。フランスも日本も世界一、二を争う長寿国なのだ。余生の方が長いぼくらは、フィンランドからその秘訣を学ぶべきなのか・・・。フィンランドで認知症施設や高齢者施設で働いてきた教育・介護のスペシャリスト、ヒルトゥネン・久美子さんに、何がフィンランドの人々をそこまで幸せに導いているのか、その死生観の源にあるものを訊いてみることにした。
ザ・インタビュー「幸福度世界一に輝く、フィンランドの幸せな生き方」
辻 フィンランドは幸福度世界一の国に、4年連続で今年もまた輝いたということですが、その基準って一体何なんでしょう?
ヒルトゥネン これは、国連の世界幸福度調査の結果なんですけれど、男女平等である、貧困が少ない、汚職、犯罪が少ない、教育が平等だとか、生活のしやすさですね。経済状況など関係なく、全ての人に平等に権利が与えられているということが幸せを感じる基本じゃないかと思います。(*実際の項目はGDP, 社会的支援、健康寿命、人生の選択の自由、寛容さ、腐敗の認識の6つを評価するもの)
辻 国から生きやすく生きる権利が与えられているということですね。ヒルトゥネンさんは介護とか高齢者施設とか、認知症施設、そういう関係のお仕事をされていて、日本とフィンランドを繋ぎながら、幸福度世界一にさせるスキルみたいなものを日本に伝えるお仕事をされている。その生き方に興味があります。というのは、僕はずっと小説家として死生観ということに注目してきたんですね。死についてのテーマを持つ作品が多いんですよ。僕自身について語らせてもらうと、僕は小さい頃に死は人生の大団円だということに気がつき、納得してある意味豊かに死ぬために毎日苦しくとも生きていくと決めた人なんです。死は悲しむものではなくて、むしろ一生に一度しか経験できない素晴らしいこと。神様が人間に与えた最後の経験なのかもしれない、と思って生きてきた一人なのです。だから、あまり死についてネガティブには捉えていないんです。僕はずっとそういうことを歌ったり書いたりしてきたんですね。死生観が次第に確立していく中で、死はそんなに恐れるものじゃないというところに至って、今、61歳なんですけれども(笑)。だからこそ、フィンランドの幸福度感ってどういうものなんだろうって物凄く興味がありました。ヒルトゥネンさんが以前に書いてくれた記事に、「多くの人が、笑って死んでいくのよ。ある意味、死を迎える時はとても美しい瞬間だと思う」という、フィンランドの認知症高齢者施設の方がおっしゃった言葉がありましたが、それが僕の中にずっと残っています。ある意味、すごい言葉じゃないでしょうか。
ヒルトゥネン はい、それは私が尊敬する認知症高齢者施設の施設長トゥーラさんの言葉です。私もその言葉を彼女から聞いた時に、ドキッとしました。その施設にいらっしゃる方は重度の認知症の方なので、どんなサポートがあってももう自宅では暮らせない人たち。そこが最後の住処という方たちなんですよね。だけど、自宅と同じように、スケジュールにコントロールされず自分の時間で自分らしく生き続けられる場所。最期の時がきても病院に送られず、自分の家で亡くなるという感じでみなさん過ごしています。痛みがあったら気の毒なのでモルヒネとか薬は使いますけれども、でも、自分の好きな懐かしい曲を聴いたり、好きな香りを嗅いだりしながら、好きな人、家族に囲まれながらその時を迎えるんですね。本当にみなさん苦しまず、良い思い出の中で目を閉じていく。平安な気持ちで命を終える時を待つことができるから笑顔が出てくる、というんです。そういう話を聞いて、ドキッとしたのは、やはりそれまで自分の死についてあまり考えたことがなかったというのもありました。どう反応していいかわからない、という。
辻 なるほど。日本の場合はどうなんでしょうか?
ヒルトゥネン その時、日本人の高齢者施設で働く視察団の方々と一緒に聞いていたのですが、日本では毎日高齢者と接しているけれど、「死については話さない」とおっしゃっていました。
辻 それはなんで話さないのでしょう?
ヒルトゥネン まず、「とてもデリケートな話ですよね〜」とおっしゃってました。高齢者に対して失礼だし、不謹慎と思われるかもしれない。もし言い方に失敗して不安にさせてしまったり、家族からクレームが出たりとか、目の前のおじいちゃん、おばあちゃんだけじゃなく、その周辺に意識がいっちゃって、触れない方がいいというのが無難な選択みたいです。
辻 ところが、フィンランドではその逆で、死について語りあっていくということなんですね。
ヒルトゥネン そうなんです。重度の認知症の方々なのでどこまで話ができるかはわからないんですが、「私はもしかしたら死ぬのかしら?」とか、「どのくらいかな?」といった話が出た時に、たとえば、あと4、5日だなとわかっている場合にはどう接するのかを聞いてみたのですが、日本では、「大丈夫だよ、また美味しいお寿司一緒に食べようね!」など、どうしても曖昧に対応してしまうそうなんです。その話をしたらフィンランドの人たちが、「でも本人は真剣に死について聞いている、その最期の時に、そんな風にスルーしちゃっていいの?」とおっしゃった。そしたら、日本の視察団の方々、みんなシーンとなっちゃって・・・。いくら周りが大丈夫だよ、と言っても、本人はこの感覚はちょっと違う、と思ってるかも知れないですから。
辻 たしかに、もう絶対お寿司なんか食べられないと思っている人たちにそんなこと言っても、ごまかしでしかないですよね。
ヒルトゥネン でも、日本人はみんな、自分に気を使ってくれていることもわかっているから、「そうね」って言って流すようです。お互いに互いを困らせないように気を使いあってるのかも知れない。フィンランドはそう言う文化ではないので。シャイとは言われていますが、実際はすごく話す人たちなんです。どうでもいいことも深く話したいみたいで、サウナの中でも、いつまで話すの?って感じで語りあっています。
辻 それは、フランス人にも見受けられますね。欧州の人たちって話すこと、声に出すことで自分の中で納得していく。というのがあるのかな。
ヒルトゥネン 声に出すことで、感覚が変わって、もっとはっきり見えてきたとか、人に答えをもらうためではなく、自分で答えを出すためにする作業なのかなと思うんですよね。
辻 あえて隠したりしないで、堂々と死生観を語るということがフィンランドにはもともとあるということですね。
ヒルトゥネン あります。フィンランドでは死は不謹慎でも縁起でもないことではなく、「人の一生は生まれてから終わるまで」の自然なものと理解して、日頃からあえて話題にしています。だから最初の頃はびっくりして、周りにご家族とかいたりするのに、認知症とはいえども聞いているよ?とドギマギしていました。日本人にとって「死」という言葉はドッキリしてしまうけれど、フィンランドでは「みんなここで亡くなるの。死ぬのよ。1人も病院には連れて行かない」なんて、堂々と言えちゃうんです。もうこの施設が設立されてから10年以上が経ちますが、ここから病院に運ばれた方は本当に一人もいません。フィンランド全てではないのですが、そこは先駆者的と言うか、最初からず〜っとそうです。
辻 声をひそめたりせず、親切に自分たちの死生観を語るんですね。そこはフィンランドでもちょっと特別な認知症施設と捉えた方が良いのでしょうか? それとも平均的な施設と考えて良いのでしょうか。
ヒルトゥネン 今は平均的になってきています。ほとんどの施設が「看取り」は施設でするべきという考え方になってきています。移行期ということでしょうか。でも、フィンランドもいいことばかりでは無くて、スタッフが足りなくて看取りに付き添う余裕がない施設もあるんですね。家族とスタッフ、誰かが側にいるならいいけれど、もし、人手不足で放っておかれてしまったら、それはよい看取りではないので、病院に連れていくこともあります。
辻 ヒルトゥネンさんがいらっしゃる施設ではちゃんと必ず誰かがいるということですね。これ、フィンランドでも「看取り」というのですか? 見送るということですね。
ヒルトゥネン フィンランド語で「Saattohoito サーットホイト(寄り添って見送るという意味)」といいます。「見送る」ということは、残された家族たちにとってもケアになるんですね。皆で共に見送るという環境では、亡くなる本人も自分の命が終わることを理解して、さようならといって天国にいけるから良いと言う方も多いですが、残された人たちにとっても一緒に正直に死に向かい合って見送ったという、ある意味寂しい中にも清々しい気持ちがあり、また自分の命を生き続けることができるいうか…。
辻 あともう一つ、ヒルトゥネンさんが心から感動したという言葉で、「すべての人に自分の生きてきた道がある。そのMy Type of Lifeをできるだけ最後まで続けたい。人生は誕生から死までひとつながりのその線状で終わりを迎えるものですものね」というのがありましたが、それもこのトゥーラさんがおっしゃたんでしょうか? この言葉があまりにも素晴らしくて感動しました。
ヒルトゥネン はい、トゥーラさんです。こういう風に適切に言葉にしてくれた方はいなかったので、聞いた途端にズッシーンというか、ぐさっと胸に響きました。
辻 想像するに、トゥーラさん自身もすごい議論を重ねていく中で、皆さんにわかりやすくするために、一つの死生観を一本の大きな樹木のように言葉化されたのでしょうね。
ヒルトゥネン もし機会があったら辻さんにも会ってもらいたいです。普通のおばちゃんなんです。ムーミンって知っていますか? フィンランドの本なんですけど、そこに出てくるミーみたいな雰囲気。でもすごく優しい人、ダミ声で大声で笑う人なんですよ。彼女はヘルシンキなどいろいろな施設で働いてきて、施設に入った途端にそこのスケジュールに合わせて高齢者が暮らす事になるのは、ちょっと違うと思ったそうなんです。人間には生まれてから命を終えるまで虹のような人生曲線というのがあって、たとえ、認知症で話しができなくなり、オムツが必要となっても、その人の人生曲線はずっと続いていて、それを辿るとその人が見えてくる。おむつ替えや、食事の介助など作業として、やることをやるだけの対応ではなく、その人の人生曲線を心に留めて接することが本当のケアだ、と気づいたそうなんです。
辻 人生曲線という発想が素晴らしい。たくさんのおじいちゃん、おばあちゃんがいるけど、その人たち一人一人の過去を辿れば、彼女、彼は元ダンサーだったり、元サッカー選手や野球選手だったり、そういう人生の虹があるんだよ、ということですね。
ヒルトゥネン そうです。人それぞれの人生の生き方の好みがあるんです。その話を日本の視察団の方々とした時に、日本では私的な情報を共有しにくい環境があるとおっしゃっていました。食事の好みや治療法などはもちろん情報共有しますが、人生経験や人生観については根掘り葉掘り聞けないという施設が多いようです。心を探るようなことはしないそうなんです。「微妙ですね〜」と言う言葉の中になんとなく、本質を見ずに避けている感じもします。日本でも軽く肌に触れることはあっても、親しくなりすぎてはいけないという・・・、そういう現状があるようでした。
辻 なんで日本の施設の皆さんは、近からず遠からず、そう接することが正しいと思っているんでしょうか。
ヒルトゥネン お互いに気を使っているのかな。国民性が違いますし、日本が間違っているとは言えないんです。でも、あと一歩、心を掴めないまま、あと一言、伝えられないまま「さようなら」をしてしまうということがあるような気はしますね。そうすると何か心に消化しきれない、後悔みたいなものが残るような気がします。
辻 日本だって長寿国だから、そういうことをもっと考えなきゃいけなくなるかもですね。今聞いていたら、もしかしたら、トゥーラさんがフィンランドを幸福度一番にしている、ひっぱっている人物の1人かも知れないですね。そんな気がしてきました。
ヒルトゥネン そうですね。本当に大胆で正直な方です。一応、今はコロナ禍ですから施設に入る上での規則があるんです。ですが彼女は、「規則は聞いておく。だけど、最終的な判断は私が責任を持ってやります」と言い切っています。
辻 冒頭でも話した、「多くの人が笑って死んでいくのよ、ある意味、死を迎える瞬間はとても美しい瞬間だと思う」という言葉にこの人の人生が見えるし、自信が見えますね。こういう人がいるからこそ、お年寄りの方々も安心して死を迎えられるというのもあるのかな、と思いました。
ヒルトゥネン 本人にとっても、家族にとってもそうだと思います。そこに入る時にスタッフも家族も、みんな同じ価値観を確認して共有しているので、そんな風に一緒に死を迎えてくれる、自分の父や母を家族と一緒に送ってくれるんだ、と心が平安です。「申し訳ありませんがお願いします」という家族と施設のやりとりでは無くて、スタッフも一緒に泣いて、一緒に喜ぶみたいな。そういう空気があります。だから家族みたいになってしまうんですね。
辻 こういうことができる背景にはフィンランドの充実した研修制度や技術的な訓練なども関係があるのですか?
ヒルトゥネン それはありますね。フィンランドだけでは無く、北欧というのは生涯学習が推奨されていて、みんな勉強するのが大好きなんです。日本の方も好きじゃないですか。カルチャースクールも人気です。それは、いつまでも夢を持てることでもあるし、何歳になっても学ぶっていいことですよね。現場に出てもう勉強ができない職場というのは良い職場ではないんですよね。どこの大学を出たかはあまり問題ではありません。そして、一生同じ学歴ではなく、いつもやり直しができるし、いつも成長し続けている。フィンランド人はそういう履歴書を持っている感じです。しかも教育は無料なんですよ。有料の生涯学習コースももちろんありますけれど、だけど、お金がないと教育が受けられないということに対してはすごく抵抗しています。なので、60歳になっても大学で無料で学べる社会でなければいけないという教育スタンスです。もちろん、フィンランド人皆が勉強熱心ということではないです。面倒臭くて嫌だという人もいます(笑)。
辻 認知症高齢者施設では毎年5月にジャズの演奏を聴きながら、家族とともに桜を楽しむパーティーがあるそうですが。今年はできましたか?
ヒルトゥネン 残念ながら、去年も今年もキャンセルでした。来年はぜひやりたいそうです。シャンパーニュを飲みながら。こういう施設でお酒が出てくるというのも特徴的ですね。この施設では週末は食事にちょっとワインがでたり。フィンランドのおじいちゃんおばあちゃんはコーヒーと一緒にリキュールをちょっといただく習慣があるのですが、サウナの後や、結婚記念日とか、何か思い出の日にはちょっとブランデーを飲む?みたいな。もちろん酔うほどは飲みません。でも、日本だったら万が一酔って、転んだりしたらいけないからお酒は絶対出さないようです。こうして安全のために制限が次から次へと出てくると結局はMy type of lifeができなくなっちゃうんですよね。(安全を提供するのは誰のため?何のため?フィンランドでは目の前の高齢者の幸せをまず第一に考えているのだと思います)
辻 フィンランドの認知症高齢者施設というのはみなさんが自宅と思って暮らしているんですよね? 自宅で死んでもらいたいというのは、施設のことを指す。そこが日本と違いますね。
ヒルトゥネン もちろん本物の自宅とは違います。認知症高齢者向けの「施設」ではあるんですが、今の自宅から施設の中の自宅に移る(引っ越しをする)という意識です。施設に暮らしても、そこはその人の自宅のようであるべきなんです。今までと同じ暮らし方My Type of Lifeを続けられることが大切なんですね。この施設には家族や自分が希望を出して入る場合と市が紹介する場合があります。
辻 なるほど。自分が選んでいてくる人もいれば、家族や市が選ぶ場合もあるんですね。「こんなに長く一緒に暮らしてきたおじいちゃんを病院に送るなんて、そんなことはできない」とフィンランドの介護士さんがおっしゃっている。そういうことを介護する側も思っているというのはすごいですね。日本ではどうなんでしょうか。
ヒルトゥネン 日本はある程度の距離感を持ちながら、皆に平等に接する。あまり近づきすぎると家族が嫉妬したり、心配するということもあるんですね。手を触れたりハグをしたりすると、「なんで?」となる。フィンランドはMy 介護士制度といって、介護士がその高齢者の代弁者となるというシステムもあり、自分の担当のおじいちゃん、おばあちゃんのことをよ〜く知る努力をするので、本当に家族みたいになっちゃうんですよね。
辻 では、フィンランドは、国民にどう生きていったらいいと伝えているのでしょうか。
ヒルトゥネン 国はやはり経費のことを考えれば、できればみんな在宅介護が望ましいと言います。フィンランドの目標は高齢者ができるだけ長く自宅で暮らせる環境作りです。様々な公サービスを提供して、自立した高齢者の生活を支援していますね。健康管理や趣味関心による地域アクティビティへの参加、家事や身の回りのサポートなどに加えて、最近は身近に家族やお友達がいない方向けの「お友達制度」などもあります。施設や病院に入るのは本当に最期だけ。ですが、お話しした施設は「自分の家」として「自分を生き続ける」ことができるので、ここで暮らすうちにみなさん元気になって長生きしちゃうんですよ。
辻 なるほど。「幸福」って漠然とした言葉でしたが、フィンランドのお話を聞いてシルエットが今までよりも少し見えた気がします。
ヒルトゥネン フィンランド人が「幸福」になるキーポイントって、最後まで自分を生きることができるかどうか、なんです。それができたら幸福だと思っている。決して意固地になっているわけじゃなく、自分の生き方を納得して受け入れて、いろいろあったけど、自分が選んできた道には満足していて、家族もいる、友達もいる、小さいけど家もある。そういう物事の本質に向き合うというか、自分はどうしたいの? ということを、みんなサウナに入ってる時や森を歩きながらずーっと考えているんですね。そうやって、最後まで自分を生き切ることができたら幸せなんだ、と。
*6月13日の地球カレッジは・・・
ヒルトゥネン 久美子
「4年連続幸福度世界一のフィンランドから学ぶ、幸福学」
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posted by 辻 仁成