JINSEI STORIES

妖怪日記「ぼくは再び、妖怪の館の前に立っていた」 Posted on 2021/05/18 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、午前中、荷物をまとめていると、息子がやってきて、
「え? また行くの?」
といった。
「昨日、行くって言ったじゃん。寂しいのか」
「・・・別に」
ということで、寂しそうな息子を残し、ぼくは朝、パリを離れた。
4連休は終わり、今日、月曜日からフランスは再び通常通りの生活に戻っている。
子供たちは学校へ行き、大人たちはテレワークを再開した。
9時くらいに家を出て、田舎のアパルトマンに着いたのは昼過ぎであった。
ぼくは妖怪の館の前で立ち止まり、見上げた。
窓が全部、閉まっている。
下の階の、カイザー髭とハウル魔女のアパルトマンの窓も、一階のフランケンとベルナデッドのアパルトマンの雨戸も閉ざされていた。
みんな休みが終わり、それぞれの自宅に戻ったのであろう。誰もいなければ、大声で歌の練習ができる。やった。館を独り占めだ。



ここに永住している人はいないようだ。全員に会ったわけじゃないけれど、みんなセカンドハウスのように利用しているのだろう。
夏のバカンスの時期は逆に賑やかになるのかもしれない。
妖怪の館は小高い丘の上に聳えていた。周囲にぽつぽつと同じような館が見えるけど、閑散としている。
一番上の屋根裏部屋を見上げた。
今週、ぼくはここで一人で過ごすことになりそうだ。
屋上にいるカモメたちの鳴き声で起こされ、カモメたちの交尾の切ない声を聴きながら眠りにつくのである。
ぼくは鍵をとりだし、まず、最初の門を開錠した。
ぎいい、と錆びた鉄の音がする。
155年前に作られた古い鉄扉。次に、建物に入るための共同の扉を開けなければならない。
これも155年前の扉ということになる。
大きいけれど、かなりガタが来ている。
安全のために、二つ鍵が付いているのだけど、一つは鍵が壊れている。
それよりも、問題は管理人がいないことだ。
パリだとこれくらいの館になれば誰かが常駐し、建物や付属する庭の管理などをするが、管理人がいないので、どこか物淋しい風情である。
もちろん、門も、玄関も入ったら施錠をする。泥棒に入られないために、である。
しっかりと鍵をかけた。

地球カレッジ

妖怪日記「ぼくは再び、妖怪の館の前に立っていた」



ぼくはギターと荷物を抱えて階段を上った。
155年前の階段にしては、立派な階段である。
玄関ホール周辺は、少しカビの匂いがするが上階へあがるたびにそれも気にならなくなる。カイザー髭の家の横の勝手口のような扉が我が家の入り口になる。
髭さんの家にはセコムのような監視カメラが設置されてある。
実は、どの階にも監視装置がついている。ぼくは付けてない。
他の住人の家の扉は観音開きの大きなドアだけれど、うちのは、まるで物置の扉。
ここを狙う泥棒がいるとは思えないからだ。
しかし、一応、安全のために鍵に取り換えた。

妖怪日記「ぼくは再び、妖怪の館の前に立っていた」



開錠し、そこからさらに階段を上ると、光り溢れる世界が主人を待っていた。
遠方に海が広がっている。天気予報は雨とあったが、快晴だ。
荷物を置き、しばらく、景色を眺めた。
ふと、思った。今、この館にはぼくしかないのだ。
やった。思う存分、歌の練習ができる。
ギターを取り出し、ぼくは憚ることなく、歌った。
セーヌ川クルーズライブまであと13日と迫っている。おお、二週間切ってる。
まるで貸し切りスタジオのようじゃないか。ぼくは二時間くらい歌い続けた。
一通り、練習が終わった後、自慢のお風呂に湯を張って、浸かった。
遮るもののない天空のバスルームなので、素っ裸で部屋の中を移動しても、問題はない。すっぽんぽんである。
と、その時、・・・
ぴんぽーん、とドアベルが鳴った。え?



この建物にはインターホンがない。アマゾンなどの配達人さんからは、携帯にまずメッセージが入る。
住人が下までおりて、鍵を開錠しないとならない。
建物内の玄関ホールにもインターホンはない。
だから、各階に監視カメラがついている。しかし、今、誰かがうちのドアの前にいて、ドアベルを鳴らしたのだ。
だれだ?
ぴんぽーん。
これがとっても間の抜けた霊界の呼び出し音のような鈍い音なのである。
ぼくは裸で風呂に浸かっている。携帯を掴み、息子に電話をした。
「なに?」
珍しく、出た。
「15分後、もう一度、電話する。電話がなければ、リサかロベルトに連絡をして、パパに何かあったかもしれない、と言え」
「は? なに? どういうこと?」
「誰かが来た」
ぴんぽーん。
「ほら、誰もいないはずなのに、ドアベルが鳴ってる」
「出ればいいじゃん。どうせ、下の人とか、ガス会社とか、誰かだよ」
「そうかもしれないけど、パパは今、裸なんだ。ちょっとガウンをまとって様子みてくるけど、もしも、泥棒とかだったら、パパは勝てない」
息子が笑いだした。そりゃあ、間違いない、と笑っている。くそ、・・・
「わかった。10分待ってるから、早く行ってきて」
まともにとりあってくれない息子に腹を立てながら、バスローブをまとって、下は裸のまま、階段をおりた。
何かあってはいけないので、ぼくは武器になるものを探したが、何もない。仕方がないので、前回飲んだワインの瓶を握りしめて、下りた。
それが、覗き穴とかもないのだ。ドアベルも、ただのドアベルで、インターホンではない。
なので、ドアの内側から、
「どなた?」
と声を張り上げてみた。しかし、応答なし。
もしかしたら、カイザー髭かもしれない。あるいは、その下のフィリップ殿下か、あるいは、一階のフランケンか、・・・。
ワインボトルを握りしめ、ぼくは勇気を出して、ドアを開けた。
がらんとした踊り場には誰もいなかった。古い館の五階までわざわざ登って来て、用もないのに、(ロックダウン中である)ドアベルを鳴らす暇人などいるだろうか、・・・。
見回したが、誰もいなかった。
ステンドグラスから差し込む淡い光りが踊り場に、薄い桃色の模様をこしらえていた。ぼくは階段を覗き込んだ。急こう配の階段が続く。
ちょっとだけ、不安になり、
「誰かいるかい?」
と声を張り上げてみた。
返事は戻ってこなかった。携帯を取り出し、息子に電話をした。
「だれもいない」
「じゃあ、ドアベルが壊れたんじゃないの?」
「先週、買ったばかりの新品だぞ」
「知らないけど、じゃあ、幽霊なんじゃないの?」
「・・・・」
「パパ、パリに戻ってくれば?」
「今、来たばかりなのに、あほか」
「じゃあ、ぼく、授業があるから、切るね」
息子が電話を切った。不意に、太陽がぐんと落ちた。ぼくは、もう振り返らずに、家の中に急ぎ足で戻り、しっかりと施錠したのだった。
今夜、ぼくは眠れるだろうか・・・

つづく。

妖怪日記「ぼくは再び、妖怪の館の前に立っていた」



自分流×帝京大学