JINSEI STORIES
パリ日記「パリに戻った父ちゃんを待ち受けていた、朝青龍」 Posted on 2021/05/15 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、結局、昨日は、田舎の妖怪たち(ハウル魔女とカイザー髭)に掴まり、パリに戻る時間が大幅に遅れてしまうことになった。
帰ろうとすると、「まだ、終わってないよ」と引き留められ、自分たちが作ったという室内の様々なものを見せられたのだ。
キッチン・テーブルとか、隙間の棚とか、とにかく、帰るに帰れず、オルガンも生演奏を聞かされ、ギターを持ってきなさい、と言われ、やんわりと拒否るのにさらに時間がかかり、ご飯食べていけ、とまで言われたので、本当に、息子のことが心配で申し訳ないです、と振り切るのに必死・・・。やれやれ、手ごわい妖怪二人組である。
悪い人たちじゃないことはわかったけど、とにかく見た目が怖いので、落ち着いて微笑みを浮かべていられない。
「ムッシュ。こっちにおいで」
とハウルが最後にぼくの手を引っ張って、(いきなり)寝室の一つの窓辺に連れていかれ、
「何も遮るものがない、海の景色、素晴らしいでしょ」
と自慢する、その横顔の、あまりにハウルの動く城の荒地の魔女瓜二つの横顔を至近距離で見てしまい、吹き出すのと、卒倒しそうになるのを交互に感じながら、そこを後にするのだけど、玄関を出る時に一瞬振り返ったら、くらーい玄関口で並んで寂しそうにぼくを見送る亡霊たちのたたずむ姿・・・、ぼくはもう振り返らずに、自分の部屋の階段を駆け上がるのだった。
ともかく、いち早く田舎を出ないとパリには戻れないと思い、急いで片付けと昼食の準備をした父ちゃん、しかし、その時、携帯が鳴った。
「はい」
「・・運送だけど。今、下なんですけど。誰もいないの?」
「あれ、息子がいるはずですけど」
「朝の八時半にも一度来たけど、誰も出なかったよ。何度も呼び鈴鳴らしたけど」
「いませんか?」
「あんたどこ?」
ぼくが、田舎にいる、と伝えると、ため息をつかれ、じゃあ、明日出直すね、とムッシュは言い残した。
ぼくは息子に、
「今日帰ろうかな、と思ってるけど、家にいる?」
とSMSを打ったら、
「いるよ」
と戻ってきた。変だ。
もちろん、ヘッドフォンをかぶってゲームに集中していることもあるので、それ以上、追求するのはやめた。
とにかく、帰らなきゃ、と思った。
ガソリンをいれ、マクドナルドでフィッシュバーガーを食べて、それから高速に乗った。
パリまで、早くて、3時間以上かかる。ぼくは安全運転で帰るし、トイレ休憩が3回は必要なので、もっとかかる、4時間半くらいかな。
家に辿りついたのは夕方、18時くらいであった。
ところが戻ると、家はもぬけの殻、シーンと静まり帰っている。
息子の部屋は真っ暗で、覗くと、窓が少し開いた状態であった。
誰かをここに呼んだ形跡はない。
というのは、部屋がいつものようにあまりに散らかっていたからだ。
恋人君などを招く場合、あの子の性格からすると、部屋が信じられないくらい片付ているはずだったから、とりあえず、荒れ果てた部屋を見る限り、問題はなさそうだった。
くんくん、とにおいを嗅いでみたけど、息子のにおい、男くさいにおいしかしなかった。
夕飯の買い物に出ると、ぼくのカルチエ(ご近所)の様子がいっぺんしていた。
レストランやカフェの前で店の人や工事人たちがテラス席を増築しているのである。
先々月、こっそり客に食事をふるまっていたホテルのレストラン、警察が運悪く巡回に来て見つかり2週間の営業停止処分をくらったそのレストランが、テラス席の工事をしていた。
シェフがぼくを見つけ、
「ムッシュ、ついにオープン出来る。8か月振りの営業再開ですよ。また来てください」
と明るい顔で言った。
「いつから?」
「19日から、パリにまた活気が戻ります」
みんな笑顔だった。昨日のフランス全土の死者数は131人だった。
ワクチン接種が順調で、約30%(13%が二回接種終えている)がすでにワクチンを経験している。
フランスは昨日一日だけで全土で30万人以上が打ってるみたいで、この調子で接種が続けば、死者数もさらに減るだろう。
検査数が多いので感染者はまだ一日、一万人前後出ているが、重傷者と死者数の数を見ていると、ワクチンとロックダウンの効果は出ている。
ただ、専門家が心配をしている、ロックダウンの解除で、人々が一気に日常を取り戻そうとすることの反動がどうでるか? コロナ収束に向かっている英国は昨日、10人程度、ドイツは190人程度。
しかし、抑え込んだと思ったら、必ずリバウンドするのがこのウイルスの恐ろしいところなので、フランスもまだまだ油断できない。
むしろ、ここで、ぎゅっと締め付けたいところだが、人間の心をこれ以上締め付けるのは難しく、そのバランスでフランス政府も苦しんでいるようだ。様子をみるしかない。
夕飯の買い物をして、家に戻り、キッチンで料理をしていると、ドアが開く音がした。息子だ。19時をちょっとまわっていた。ぼくが帰ったことを察知したか、息子が玄関口で様子を見ているのが、わかった。昔のお母さんみたいに濡れた手をエプロンでぬぐいながら、父ちゃんは息子の顔を見に言った。すると・・・
暗い玄関口でたたずむ息子がいた。
「おかえり」
「今日、帰ってきたんだ」
え???? 顔が違う。
な、なにがあった???
暗いからだ、と思い、玄関の灯りをつけた。すると、狼男のように手で顔を隠した息子。
「眩しいよ」
「暗いだろ」
目、目が腫れている。寝てないみたいな顔をしている。
ぼくは邪推した。昨日、帰ってこなかったのか? どこかで一晩中遊んでいたのだろうか? 彼女の家にいたのか? 4連休で親は田舎で不在だったのかもしれない、などと父ちゃんはいろいろと邪推してしまったが、それ以上、なぜか、突っ込むことが出来なかった。
夕飯は餃子を大量に作ったのだけど、息子はあまり食べなかった。やはり目が腫れている。
「寝てないの? 目が腫れてるけど」
と尋問すると、
「昨日、眠れなくてさ、考え事していたから」
「今日、朝は八時半に荷物業者が来たけど、いなかったって行ってるけど、お前、いるよって言ったよな?」
「いたよ。7時半に友だちと会いに遊びに出たからでしょ」
これ以上、追求して何になる、と思った。しかし、目が完全に腫れて赤くなっている。こんな朝青龍みたいな顔ははじめてだ。(朝青龍さん、ごめんなさい。応援しています)
ぼくらは黙って、餃子を食べた。とりあえず、そこは追及せず、ぼくらはそれぞれの部屋に戻り休むことになる。
そして、今朝、息子は再び、出かけて行った。
「昼ごはんは?」
「いらない」
ううむ。田舎は妖怪たちに囲まれ、パリには朝青龍が出た。父ちゃんに、心休まる場所は見つかるのだろうか・・・
つづく。