JINSEI STORIES
退屈日記「父ちゃんの卵焼きを学ぶ、息子の長い人生の一コマ」 Posted on 2021/05/12 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、田舎から戻ると、いつになく、息子が喜んでいるのがわかる。
べったり一緒に暮らしている時は返事も戻ってこないのだけど、ぼくが一週間ぶりくらいに家に戻ると、おかえりー、と笑顔をむけてくる。
ふむふむ。
今回は二泊してまた田舎に戻ったが、この生活にも次第になれていくのだろうか?
やっぱり、あの子なりにぼくがいないのはちょっとは寂しいのかもしれない。そりゃあ、そうだ。
息子はぼくが不在の時、広い食堂で、一人でご飯を食べていることになる。やっぱりご飯は家族そろって、手作り愛情料理を食べる方が、たとえ、会話がなくても、しっくりする。
「パパが田舎にいるあいだ、どう?」
「うん、普通」
相変わらず、返事は短い。
「でも、やっぱ、パパが作るご飯、うまいだろ?」
「うん」
いつもの、うん、とはちょっと違う。しみじみとしたうんである。えへへ。
「やっぱ、パパでも、いると寂しくないのか?」
返事なし・・・。愛の押し売りはいけませんね。
「パパ、これ、サインしてくれる? また、田舎に行くんでしょ? 明日まで」
息子が来年の受験にむけて、学校終わりに塾に入る。そのサインだ。
え? 2000ユーロ(26万円)た、たけーーーーー。
9月から来年4月までの塾代金。といっても、塾に通うのじゃなく、授業終わりに、塾の先生たちが学校にきて、学校が終わった後に、学校の教室を利用した特別な塾が開催される。
違うところに移動しなくていいので、時間の節約になるし、生徒に負担がない分便利だけど、先生たちがやって来るので、高い。
もちろん、教育費だから、仕方ない。少しでもいい大学に入ってもらいたい、という親心である。笑。ワインを少し我慢しなきゃ、と思った父ちゃんであった。
来年の受験にむけて、頑張る息子くんと、自分の人生を選んで田舎生活を始めた父ちゃんの二重生活がはじまった。
簡単に言うと、ウイークデイは田舎で暮らし、週末は息子とパリで過ごすという二重生活になりつつある。
なんとなく、だからか、その分、週末が充実してきた、気がする。
「何が食べたい?」
パリを離れる前の晩に、言った。
「うーん、そうだね。久しぶりに卵焼き食べたいな。パパの」
「お、いいね、よし、卵焼き作ったる」
「あ、じゃあ、作り方、教えてくれる。せっかくだから」
ということで、二人でキッチンに立つことになった。
なんとなく、横に息子がいるのは、くすぐったいものだ。
ぼくよりも大きくなった息子くん。卵嫌いなんだけど、ぼくの卵焼きだけは食べる。父ちゃんの卵焼きは甘くてふわふわだから、子供に人気なのである。
お箸で卵の層を作っていくやり方などを指導した。
「そう、そこでひっくり返せ。よし」
これが最後の料理教室になるのかな、と思いながら、ぼくは教えた。
自分が人生でつかんだ技術は全部、生きている間に息子に伝授したいと思う。とくに食べることは生きることだから、大事なので、基本はしっかりと教えていく。
この子が、だし巻き卵を食べるたびに、二人で生きたこの期間を思い出してもらえたらいいなぁ、と思うのだ。息子が、自分の子供たちに、いつか教えるかもしれないので、それを思うと、ちゃんと教えないとならない。
「いいね、上出来だ」
「うん」
こういう思い出がいずれ人生を支えることになることを、ぼくは知っている。