JINSEI STORIES
滞仏日記「なぜ、フランスに自粛警察がいないのか? アドリアン大いに語る」 Posted on 2021/05/01 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、夕飯の買い物に出たら、通りの閉鎖中のカフェのテラス席(テラス営業が出来ていた去年の名残で、いまだ、そのまま放置されたテラス席が通りのそこかしこにぼん、ぼん、とある)でアドリアンが一人、新聞を読んで葉巻をふかしていた。
ぼくは背後から近づき、
「よお、フィロゾフ(哲学者)」
と声をかけた。
「これはこれは日本の作家(エクリヴァン)よ」
とギャング面のアドリアンは言った。
彼のことを知らない人がこの男とすれ違ったら、間違いなく、マフィアだと思うだろう。しかし、彼は哲学者で、先日もNHKのドキュメンタリー番組に出演をしてもらい、コロナ後の世界のことについて語ってもらったのだ。
※けっこう、いいことを言っていたので、カットされないことを望む。アドリアン、ついに、NHKに初出演なのだ。
「どうだい、世界は?」
とぼくが問うと、マフィアのボスは、眉根をくっつけ、
「本当に6月30日に、フランスが元通りの世界に戻るのか、私は懐疑的だ」
ともらした。
というのも、昨日、マクロン政権は5月19日にロックダウンの解除を、そして、6月30日までにはフランスを元通りの世界に戻す、といきなり宣言したのだった。
「お医者さんたちは猛反発しているねぇ」
「そりゃあ、そうだ。結局、解除をすれば反動で感染拡大をする。いたちごっこさ」
ぼくらは肩をすくめあった。コロナのこのドタバタはまだまだ続きそうである。
実は今朝、日本の知り合いから、
『ひとちゃん、日本は自粛警察がめっちゃ増えて、怖いのよ。隣県のナンバープレート付けた車まで通報される世の中になっちゃって』
とLineが入った。
「まじか」と驚いたのだった。そのことをアドリアンに話してみた。
「どういうことか、詳しく説明してくれないかね、作家君」
「だから、哲学者よ。日本はいま、感染拡大中で、関西がとくに酷いんだけどね。で、大阪のナンバープレートを付けた車で別の県に入ったら、そこの人に嫌がらせされる」
「いやがらせって?」
「ひどい時は、ぼこぼこになってしまう、車が」
「ほー」
アドリアンが目を見開いて、面白がった。
「実に日本人を表している現象なんだろうね」
「そうだね。フランスには自粛警察なんて、いないものね。夜間外出禁止令下だけど、若者たちが毎週末、パーティで大騒ぎしているけど、誰も通報しないね。なんでだろう?」
「去年、最初のロックダウン直後にはマスクしてないと、しなさい、と注意されることがあったよ」
「君は今もしてないものね」
「いや、葉巻を吸うからだよ。ランニングする人とタバコを吸う人はマスクをしないでいいんだ」
「吸ってない時にもしてないくせに」
アドリアンが笑った。
「でも、誰にも通報されたことがない」
「あんたが怖いだけだよ、顔が」
「あはは」
「だから、こんな僕でも、マスクが義務になってからだけど、神経質そうな感じで、マスクしなさい、と指摘されたことがあった。しかし、それ以降は今日までもうないな。最近だと、レストランの闇営業とかは通報されるが、これは、明らかな法律違反だし、不公平だから、通報されて当然だろう。しかし、パリのナンバープレートを他県で目撃されても、フランス人は何も思わないだろう。問題に思う人間なんか一人もいないし、そういう話しを聞くとなんで、そんなことで通報をするのか、理解に苦しむ」
「だから、日本では最近、ナンバープレートは他県だけど、自分はここに住んでいます、というステッカーが売られている。他県の車だといたずらをする人がいるらしく、他県ナンバーを付けている人は肩身が狭い。自粛警察対策用のステッカーがバカ売れしているんだってよ。ネットで調べたら、いっぱい販売されていた」
「それは哲学的な好奇心をそそる話しだね」
「県外ナンバー狩り、というある種のイジメ構造的な現象でもある。しかし、話しを戻すけど、なんで、日本は自粛警察が多いのだと思うかね?」
「それは明らかだ。日本政府がロックダウンのような罰金を果たすような強い制度を出さないで、ここまでやってきたからだ。そのせいで、仕方なく、市民が自衛するようになった、と考えるべきだろう。もともと、日本人は集団主義を重んじるので、そこからはみ出す人に厳しい。今はフランス語にもなったイジメは日本から生まれた単語だ」
「なるほど。じゃあ、日本政府がロックダウンをやり、厳格なルールをきちんと最初から決めていたら、自粛警察はここまで広がらなかった、と?」
「ありえるね。あいまいな制度で、お願いのレベルで、いわば、日本政府は日本国民のこういう真面目さを利用し、むしろ国民を自粛警察化させて、最低限の制度でだましだましやってきた、ということじゃないかな。もっとも、そこにはオリンピック開催国というもう一つのネックが存在する。日本は感染者が欧米に比べれば少ないのに、心的ダメージが強いのは、政府に責任のいったんがあると私は分析した」
「なるほど」
「それに国民性もあるだろうな。フランス人や俺のようなイタリア人、いわゆるラテン民族はもともとがそういうことにのほほんとしているからね。ドイツ人やイギリス人は日本人に近いから、もしかたらベルリンとかロンドンには自粛警察がいるかもしれないね。逆を言えば、ドイツ人や英国人は感染を制御できた、その真面目さのせいで。フランスがなかなか落ち着かないのは不真面目のせい、ということになる」
近所に住む自称アーティストのピエールがやってきた。
「よお、おふたりさん。また小難しい話しをしているのか?」
ピエールが携帯を取り出したので、ぼくらは記念撮影をやった。
「能天気なイタリアには絶対、自粛警察とかいなさそうだな」
とぼくが耳打ちしたら、
「日本は忍者の国だから、自粛警察的な土壌が昔からあったのさ」
と笑いながら言ったので、ぼくは持っていたバケットで、アドリアンを切りつけてやった。
「いた、何をするのだ」
「すきあり。そんなことじゃ日本では生きられない。ていやーー」
「やめろ自粛作家よ」
「くそ、自粛哲学者め」
ぼくらは子供のようにチャンバラをやったのである。