JINSEI STORIES
滞仏日記「気が付けば、ぼくの周りはみんなワクチン人間」 Posted on 2021/04/27 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、ワクチン接種から48時間が過ぎた。
接種の後、なんとなく、本当に何か変という感じで、身体がわずかにだるかった。
しかし、それらも、今朝にはほぼ元に戻っていた。
そうだ、ワクチンのせいかどうかはわからないけれど、昨日は一睡もできなかったし、ちょっと興奮状態が続いたのはたしかだ。
つまり、変な意味にとらないでほしいけど、でも、変なところも元気な感じな気がした。
落ち着かないのである。
気のせいか、と思ったけど、お酒もほとんど飲んでないし、それで医者の知り合いに聞いてみたところ、ワクチンが身体に順応するまでには、やはり、人によって多少の違和感が生じる可能性はあるよ、とのことだった。
違和感ね、・・・たしかに、ありゃあ、違和感かもしれない。
接種後の世界はちょっと違って見える。
今日、ボンマルシェまで買い物に出かけたのだけど、途中、いろいろな人と出会った。
まず、アンティーク家具屋のオランダ人、クラウスと街角でばったり。
「ムッシュ。ワクチンは打った?」
「打ったよ。ファイザー。君は?」
「ぼくはアストラゼネカを打った。だから、来週、マドリードに遊びに行ってくる。マドリードはカフェも、レストランも普通に開いてるからね、ちょっと気分転換してくるよ」
一時期、国が破産する、などと大騒ぎしていたスペイン、でも、今は店舗が再開している。
こういう会話は間違いなく、ワクチンが登場するまではなかった。
もしかすると、ワクチンを打ってないとレストランなどに入れないルールが出来るかもしれない。
飛行機はたぶん、証明書を持ってないと乗れなくなるだろう。
ワクチン接種が進み始め、確かに死者の数が減ってきたのも事実である。
「アストラゼネカ、大丈夫だった?」
「ぜんぜん、なんにも無し。気分爽快・おかげで安心して遊べるし」
クラウスは、るんるん、めっちゃご機嫌であった。
ボンマルシェでは、ユダヤ人のアリスと出会った。アリスはぼくよりも一回り年齢が上、70代の前半である。
「ひとなり、久しぶり、元気にしていたの?」
「ああ、一昨日、ついにワクチン接種したんだ」
「まぁ、よかった。仲間入りね。私はもう二回接種終わったので、明日からイスラエルに行くのよ。あっちは二回打たないと入国させてもらないし、何より、ワクチン証明書がないとカフェにも、どこにも入れてもらえない。証明書があれば逆に、これまで通り、何でも自由にできる。劇病もコンサートもクラブにも行ける」
「そういう世界なんだ。進んでるね」
「ええ、健康パスポートの時代がそこまで迫ってるのよ。人類は、今後、半年に一度くらいの割合で打ち続ける必要が出る。半年一度の運転免許証更新みたいな時代のはじまり」
「変異株がどんどん変異したら、もっと短いタームになるかもね」
「大丈夫よ。私は、人間の英知を信じている。だから、イスラエルは世界一早くワクチン接種国の道を選んだんだから」
イスラエルは100%、ファイザー社のワクチンなのである。
アリスは去年からすでに、ワクチン接種が可能になったら、すぐに打つと宣言していた。その約束通り、一番にワクチンを接種している。
ご主人のブルーノも二回目の接種を待っているところのようだった。
「今度、田舎の家に来て。ワクチン打ったひとなりなら大歓迎よ」
「ありがとう」
逆を言えばワクチン打ってなければ招いて貰えない時代になるのかもしれない。
帰り道、教会前のベンチで相変わらずアドリアンが葉巻を燻らせル・モンド紙を読んでいた。
「やあ、フィロゾフ(哲学者)」
「やあ、エクリヴァン(作家」」
ぼくは自分の左腕をつかんで、接種した、と伝えた。
「よかったな。我々の仲間だ。これで一応安心して生活が出来る」
「本当に、そう思うかい?」
アドリアンが新聞を畳んで、にやっと、微笑んだ。
「ムッシュ・ツジ。この感染症の今後を占える人間はまだいない。それだけは言える。一年後、いや半年後、いいや、今やインド変異株のせいで二週間後でさえ、予測できる人間はいない。みんなが実験台になっているということだ。そのせいで不条理な出来事も起こるだろう。しかし、手探りでこの闇の中を匍匐前進していくしかない。そんなところだ。でも、びくびくして生きていくのはもうごめんだ。科学の力は借りるけど、その中でも我々は人間らしく生きられる限り最大に人間らしいことをやっていく。それだけだ」
「そうだな。ところで二度の接種は終わったの?」
「来週、二度目を打つよ」
「よかったな。打たない人より95%の重症化を免れることが出きる」
不思議なのは、会う人会う人、全員、ワクチンの話しであった。
親しくしている香港系の寿司職人、パトリックと、ちょうど彼らの家の前でばったり出くわしたのだった。
「今朝、夫婦で打ってきた帰りだよ」
「おお、ついに、君もか」
「実は、ちょっとうちのが熱が出たんだけど、ドリプラン(鎮痛剤)飲んだから、今は落ち着いてる。今日はゆっくり休ませて」
副作用ではないけど、熱が出たみたいであった。
やっぱり、人によっては多少、あうあわないがあるようだ。
「大丈夫?」
「なんか、腕が腫れて動かないし、トイレに立つのも一苦労なくらい身体がいうこと効かないので、今は、寝かせてるよ。明日、治らなければ、ちょっと医者に相談をする」
「マジか、気を付けて」
急いでいるようだったので、それ以上は引き止めないことにしたけど、やっぱり、副作用はある。出る人には出る、と思っておいた方がいい。
家にたどり着いたら、下の階のムッシュとマダムと階段で一緒になった。ご主人は一度、ぼくがギターを弾き過ぎるので、「ちょっとうるさいですよ」と乗り込んできたことがあり、それ以降、関係がやや気まずい。
奥さんは弁護士で逆に好奇心が旺盛でぼくのギターとか歌を認めてくれる。
「ムッシュ、ツジ。コンサートはどうなったの? 日本でやると言ってたでしょ?」
「ああ、コロナで中止になりました。日本も感染拡大してまして」
「中止? そうよね、どこもかしこも厳しい時代だわ」
「あ、でも、セーヌ川から配信ライブをやるつもりで今、動いています」
「あら、それはとっても素晴らしいアイデアだと思うわ。今しかできないかも」
「なので、練習しないとならないから、もしかしたら、またご主人に怒られるかもしれません。うるさいですねよ?」
「大丈夫よ、あの人のことは気にしないで」
「ありがとう」
でも、気をつけなきゃ、と思った。
「ムッシュ、ところでワクチンは打ったの? 」
「うちましたよ。奥さんは?」
「順番待ち。夫はもう打った、私も来月には打ちます。どのワクチンになるのかしら」
「アストラゼネカは今、55歳以下は打つことが出来ないはずよ。もしかしたら、モデルナかファイザーでしょうね」
みんな、この話題だ。
打ったか、打たないか、ばっかり。今は、それしかない世の中なのである。
「夏までには国民のほとんどが打ち終わる。そうすれば、このような状況とはさよならできるわね。ツジさん、がんばって。その配信、聞かせてもらいたいわ」
「ええ、もちろんですよ! 楽しい配信ライブにしてみせます」
多少の希望が見えてきて、人々の顔色も明るい。これが長続きしてくれることを心の底から祈っている。