JINSEI STORIES
滞仏日記「東京オリンピックが残念ながら開催できないかも、と思う理由」 Posted on 2021/04/23 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、今日は仕事の合間、海沿いを歩いた。
というのはパリに戻りたいけど、工事業者のジェロームと連絡がつかなくなり、鍵の受け渡しが出来なくなって、帰れないのだ。
ジェロームに、「鍵、届けて。ぼくはパリに戻らないとならない」とメールや電話を入れるも、返事なし。
本当に、いい加減な男である。
そこで、もう一泊することにして、海辺を歩いた。天気も良かったので、気分転換を兼ねて何キロも歩いた。
ここは別世界である。
コロナ禍などまったく関係ない。どこまでも続く光り輝く砂浜を歩いた。
人とすれ違わないので、マスクをしている意味もなく、途中で外してしまった。
人のいない数キロも続く砂浜・・・。広大な海を前に、マスクをしている方がおかしい。
ぼくは海に向かって、
「コロナのバカ野郎~。人類をなめんなよー」
と叫んだ。
ところで、東京オリンピックは残念だけど、もう無理かもしれない・・・。
「人類がコロナに打ち勝った証」を宣言できる状況は世界を見回す限り、どこにもない。
コロナを制御できる可能性はある。しかし、この夏までには不可能だろう。
無理に開催をした場合の代償があまりにも大きすぎる。あまりに、・・・
目先のことに囚われ過ぎている、もっと先を見据えないとならない時に。
開催とか中止よりも、ぼくはもっと先のことが心配でならない。
人類はこれまでと違う価値観への切り替えを急がないとならない。
これまでの価値観の中には民主主義も含まれているし、あらゆる国際的枠組みが入っている。
けれども、このまま突き進むと、来年はもっと違う価値観でこの世界が動きだしている可能性もあるのだ。
それを予想するのは簡単ではないけれど、たとえば核戦争後の世界のような、違う風景が待ち構えている、可能性も否定できない。
今、ぼくが見ている永遠に続くフランスの砂浜は、あの有名な映画「猿の惑星」のあの有名なシーンにも重なる。
ただし、それらがいっぺんに押し寄せるのじゃなく、じわじわと断層的にやってくる感じ。
少しずつ、経済的な理由から人類の状況が横滑りしていき、弱者が押しやられ、大きな犠牲も生まれ、おそらく、資本主義が一時的に拡大して、人間の格差がさらにさらに広がり、ハーメルンの笛吹きのように、終わりへの暴走が生まれるのじゃないか・・・。
ぼくはこのことを2001年に書いた小説「オキーフの恋人、オズワルドの追憶」の中で予言している。
今、読み返してみると、21世紀のことがちりばめられている。
明後日、(日本時間だと明日)、ぼくはついにワクチンを打つことになる。
ワクチン超懐疑派だったぼくだけど、コロナによって10万人が死んだフランスで生きのびているうちに、ワクチンしか、この状況から脱出する方法がない、と悟った。
EUはファイザー社のワクチン一回分を15~16ユーロ程度で買ったらしい。
想像を絶するお金が動いているのだ、世界中で・・・。
ワクチンを作っている会社がどれだけもの凄い存在になりつつあるのか、想像してみてほしい。国家よりも大きくなる可能性がある。
ぼくはフランスの健康保険証があるので、ワクチンを無料で打つことになる。
全人類がいずれ打たないとならないワクチンがしばらくの間、われわれ人類の救世主のような役割を担うだろう。
マスクなんて誰もしていなかったフランス、今はマスクをしてない人間を見つけることが難しい。
そして、全フランス国民が夏の終わりまでに、ワクチンを接種することになる。
まもなく、世界中の人がワクチンを接種しないと日常を取り戻せない時代が訪れる。
しかし、東京オリンピックまでには間に合わない。残念だが、東京は間に合わないのだ。
それは何を物語っているのかというと、東京オリンピックは前世代最後の恐竜ということになる。
残念なことに、東京オリンピックが前時代の閉幕式になる。
そして、さらに残念なことに、東京オリンピック以降が新世代ということになるのである。
ぼくが東京オリンピックがうまくいかない、と思うのはこういう理由からだ。
だからこそ、ぼくは東京オリンピックを国益や国民の命を守る場合を考えるに、開催しちゃいけないのだ、と思っている。
国のリーダーたちは、開催することでの利益がリスクを上回るかどうかを、しっかり判断しないとならない。
ここに気づかず、開催だけに一直線の現政治家は残念ながら、前時代の最後の政治家ということになる。
※政治家もつらい立場だというのはわかる。しかし、国民はもっとつらいのだ。
日本の失墜をこの方々によって決定させるのはあまりに残念でならない。
そうならないために、心ある指導者や政治家は立ち上がって、国民の命や、日本の利益を守るために今、行動をしてほしい。
それが出来る人たちがいるとぼくは信じたい、・・・。
東京オリンピックは、映画「猿の惑星」の、砂浜に出現したあの砂に埋もれた前時代の象徴である自由の女神かもしれない。
我々が信じていた自由も、ここから先、変質していくことになるだろう。
民主主義がコロナのようにどう変異するのか、警戒と用心を持つ必要がある。
さて、ぼくは新居に帰り、午後の仕事に入った。
カナダの絵本「les etoiles」の翻訳に関して、だいたい目途がついた。最初の粗訳が終わった、ところか。
この絵本は、アラブ人の女の子とユダヤ人の男の子が星とか宇宙が縁で結ばれていく物語だが、非常に現代の人種や宗教や国家間の対立を描いている。
そして、それを乗り越えようとする純粋な気持ちが星や月などと重ねられている美しい絵本でもある。
同時に進めてきた初の電子書籍版のための改訂版「オキーフの恋人、オズワルドの追憶」も上巻分を脱稿した。
「オキーフの恋人、オズワルドの追憶」は文字数で換算すると数十万字にもなるのだけど、打ち直しながら、やっぱり文体というか自分の文章が時と共に変化しているのがよくわかって面白かった。
文章というのは書き続けていると、人間の成長に似たような現象が起きる。熟成ならばいいけど、退化は嫌だな。笑。
ぼくが書いた小説も時代によって様々な人格があった。「オキーフの恋人、オズワルドの追憶」は2001年ごろに集中して書いた作品なので、ぼくの中では意味がある。
20世紀と21世紀をつなぐ年に発表した重要なアポカリプスなのである。
オキーフは画家、ジョージア・オキーフのことであり、オズワルドはケネディを暗殺したあのリー・ハーヴェイ・オズワルドのことである。
20世紀の検証であり、21世紀を占う作品になる。