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退屈日記「ぼくを振り返らせた素敵な女性について」 Posted on 2021/03/28 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、交差点で買い物袋を両手に持って信号が変わるのを待っていたら、一人のすっとした女性が横断歩道を渡ってきた。
で、ウールっぽい素材のケープコートを着ていて、いや、まとっていて、それが足元まで隠れるような長いもので、また、その人がとっても細くて、スタイルがよくて、でも、背が高いわけじゃなく、頭が小さかったからか、とってもバランスがよく、何か、昔の英国あたりの童話から飛び出してきたような、不思議な世界観を醸した人で、とにかく目が留まって眺めていたら、ぼくとすれ違う時に、その人が80代くらいの老女であることがわかって、ぼくは言葉を失った。



失礼とは思ったけど、ぼくは思わず、振り返ってしまったのである。その後ろ姿がまたすっとしていて、背中もぜんぜん曲がっていないし、肩も小さくて、セクシーなのである。
何よりも歩く姿が絵になってる。
歪んでないし、清楚だけど、すたすたと、ある意味、若々しいのである。
でも、ぼくの横を素通りした彼女は、はっきりとわかる老女の顔をしていた。もちろん、眼力もあり、マスクだったので、顎先とかはわからなかったけれど、…ぼくの母親くらいの年齢の顔であった。
一度、ケープというかマントの端を、片方の手でさっと翻して、整えた時のかっこよさ。
宇宙戦艦ヤマトの中に出てきそうなキャラクターであった。
こんな風に年を取りたい、年を重ねたいと思ったのである。



ぼくは帰り道、背筋を伸ばして歩いた。
その老女を真似てすたすたと歩いてみた。だらしなくないし、自分を律する気持ちになる。
誰かに見られているからやっているのじゃなく、いつまでも自分のスタイルを追求している人の歩き方だと思った。
単純にかっこいいな、と思ってしまった。

地球カレッジ

ぼくはここのところ、年齢を受け入れつつある。
もう還暦を超えたのだから、どこかで諦めてもいいんじゃないか、と自分に言い聞かせる時もある。
でも、その老女を目撃した瞬間、いかんいかん、と思った。
今、頑張ればきっとまだ頑張れる。変な日本語だけど、年齢を超越したかっこよさが出せるといいなぁ、と思った。
自分自身が上がるというか、気力で若さなんてコントロールできるものかもしれないのだから…。



ぼくは作家で還暦なのに、自撮りをよくやる。
それは、どこかでまだ諦めたり、捨てたりしてない自分がいるということで、息子などには「やめなよ、自撮りとか」ってバカにされ笑われているのだが、これは若さを保つための、自分を律する運動でもある。
許せない自分は許せないので、気に入らないと食事制限とかして頑張ってしまうのだ。
自撮りした写真をインスタとかにあげる時も、修正とかガンガンいれて若くみせるのは嫌で、ああ、これ自分じゃないじゃん、と思いたくない。
プリクラみたいな写真に萌えないタイプなのである。あはは。
これも変な言い方だけどぼくの友人の女性たちが修正アプリで別人のような写真を送ってくることがあるのだけど、それはそれで頑張っているなと思うし、そういうのが流行っているのはいいことだと思いつつも、出来る限りごまかさないで、できるだけナチュラルな写真で、でも、奇跡の一枚を狙ってほしい。
奇跡の一枚をたくさん生み出していくと、不思議なことに、奇跡になるのじゃないか。まず、見られている自分に気合いが入る。
やっぱり年を取っても頑張っている人は、ただ若いだけの人より、かっこよかったりする。
で、今日、すれ違ったケープコートの老女は、ぜんぜん、おばあちゃんじゃなかった。
ぼくも、おじいちゃん、と言われたくない。
まだまだ言われない自信があるし、死ぬまで言わせない、くらいの気もちで生きなきゃ。いや、ぜったい、それがいい。
そんなのくだらない、と笑われても、まず、自分が嫌なのだから、ぼくはぼくなりの生き方を追求するだけだ。
すっと生きて歩きたいのだ。死ぬまで背筋を伸ばして歩きたいのだ。
というようなことを、その人を見て思った。
写真を撮りたかったけど、失礼だから、心の印画紙に焼き付けておいた。
80代で、ぼくを振り返らせたその人に、万歳! 年齢なんか関係ない。

退屈日記「ぼくを振り返らせた素敵な女性について」



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