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リサイクル日記「ぼくは陰口が聞こえてきたら、いい方に考えるようにしている」 Posted on 2022/07/04 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、ぼくは仕事柄、本名を全面に出して生きているので、面と向かって批判をされることもあるけれど、それはまぁ仕方がないことだと思っている。
たぶん、それでも、面の皮が厚くなるまでに、心臓に毛が生えるまでに相当な時間と相当な忍耐が必要だったことは認めないとならない。
でも、生きるということは大なり小なり、そういうことの繰り返しで、批判ゼロ、で生きながらえた人はいないだろう。
面と向かっての批判じゃなく、陰口とかはぼくが知らないだけで、驚くほどあることもだいたい察しがついている。
これも実は、ぼくだけじゃなく、どんな人でも多少はあるし、数の問題じゃなく、たった一つの陰口でも人生が停滞することはある。
むしろぼくのように数多くの批判や陰口に慣れると、あまり気にならなくなる。
しかし、全く気にならないことはないので、厄介だと思う。



もう8年くらい前のことだけど、オペラ地区にある老舗の洋食屋があって、そこに顔出したら、そこの店員さんに、辻さん、あまりオペラに来ない方がいいですよ。うちの常連がみんな辻さんの悪口言ってますから、と、ここには近づかない方がいい、みたいなことを言われたことがあった。
オペラの日本人がみんな悪口を言ってる、というようなかなり誇張した言い方だったので、ぼくは驚いた。
どんだけ、凄い人たちなの、と笑ったけど、でも、言ってる人間のことは察しがついていた。
誰かの悪口というのは、こういう誰かの影口を介して、直接本人の耳に届くものである。まぁ、ぼくが一部の人間に嫌われているのは知っていたので、驚かなかったし、そいつらがろくでもない不良中年であることも知っているので、おぼえとけよ、と思って、今でもしっかり覚えてやってるけど、問題は、そこで仲介して面白おかしく話を広げる人間と、こういうことにはかかわらないで、おとなしくしている人とに別れる、ということだ。
人間のこういう本心の闇的心理には何年生きてもなかなか慣れない。悪気があるのか、ないのか、まったく分からないので、笑える。

リサイクル日記「ぼくは陰口が聞こえてきたら、いい方に考えるようにしている」

人間というのはかくもミーハーなもので、その時、思ったのは、自分こそがそういう沼地のようなくだらない連中とかつてはよく遊んでいたということの結果であり、同じ穴の狢ということであり、ぼくはまず、その店にに寄り付かなくなった。
ところがちょっと前、そこのおかみさん(オーナー)から、辻さん、飲みましょう、と連絡がきたので、思えば、この人にはなんの関係もないのに、そこの客や店員のせいで、足を向けられなかったことをすまなかった、と思った。
話はたわいもないことで、もちろん、ぼくの悪口を率先して言ってる連中が顧客なのだけど、そういう人たちの話題は上らなかった。
ぼくがへそを曲げたことで、まわりまわったところで、人間関係が微妙になるのも、また社会なのであろう。いい飲みの会になった。



こういう人間関係の面倒くさいことはプライベートのみならず、仕事でもあるので、気を付けないとならない。
ぼくは陰口が聞こえてきたら、しかし、いい方に考えるようにしている。
これは、自分がくだらない奴らに媚びずにちゃんと生きてる証拠じゃないか。
媚びてつるんで陰口を言ってる連中の末路は見えてるんだから、堂々と悪口などは気にせず、がんがん進んでいけばいいんだ、と。
これ、昔から、辻仁成を支えてきた言葉で、文壇デビューしたときに、ロッカー作家とぼくをぼろくそに言った大先輩作家たちがいたけど、そういうことを言う連中にかぎって、ほとんどの方々が、「作家は金にならなない」とやめてしまった。
なんと志の低いことか・・・。
ぼくは自分の文学を守るために今もがんがん書き続けている。
要は、気にしている暇があったらどんどん頑張れや、ということに尽きる。自分がうまくいってるなら、街の喧噪など届かないものである。
悪口や陰口の届かない高いところ(やつらがいるところよりは高いところ、という意味、笑)に行けばいいだけのことで、批判陰口は、ぼくの「なにくそ燃料」になる。
ただし、たいした燃料ではないと一言そえておく。
あはは。

リサイクル日記「ぼくは陰口が聞こえてきたら、いい方に考えるようにしている」



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