JINSEI STORIES
滞仏日記「体調不良で身体がSOS,起き上がれない。いったいどうした自分!?」 Posted on 2021/02/24 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、首がまわらない。寝違えたのか、と思って朝から何度もストレッチとかしてみたけど、首、肩甲骨から肺のあたりにかけて筋肉痛があり、しかも、鎖骨のあたりにポチっとあった出来ものまで化膿しており、左側が全滅なのだった。
もしや、コロナかもしれない、と思ったが、コロナの症状ってこんなだったっけ?
でも、物凄くけだるくて免疫力がぐんと下がっているのは間違いなさそうだ。
「パパ、それ、あれだよ」
と息子が確信を持って言った。
ぼくは回らない首をおさえて、なに、と訊いた。
「老化」
かっちーーん。
ここ最近、運動をしても、身体が思うように動かないことが時々あるけれど、本当に、老化かもしれない。
情けないけど、それはありえる。今までは自分の身体を完全にコントロール出来ていた。
でも、最近は起き上がるだけでもきつい時がある。
(ラッキーなことに、田舎にアパルトマンを購入してから、寝つきがよくなった。何だろう、屋根を手に入れたことで、安心したのかもしれない。怖い夢もみなくなったし)
でも、身体が重い。
昨日も一昨日も走ったけど、いつもよりスピードが出ない。
自分の身体じゃないみたいで、脱ぎ捨てたい。
鎖骨のところのコリコリはもう長年あったしこりで一昨日、なんだろうと思ってぐりぐり遊んでいたのがいけなかった。膿んでしまったのだ。
もしかすると全ての原因はこいつかもしれない、と思い、東京の皮膚科のF先生に写真を撮っておくった。
「うーん、粉瘤かな」
夜、電話口でFさんが言った。8時間の時差があるから、日本は、朝である。
「あ、前になったやつね」
この先生とは十年ちょっとのお付き合いになる。独立して今はご自身の医院を経営されている。友だちなので、海外組としては、気やすく相談できるのがありがたい。
「うーん、首とは関係ないと思いますけど」
「息子が、老化、と言ってた」
Fさんが笑った。
「それはありえます」
あへ。
「フランスの主治医さんに抗生物質を処方してもらうのがいいと思う」
「あ、了解。今はリモート診察の時代だから、すぐに頼める」
「でも、辻さんは60歳なのに、基礎疾患無いのは素晴らしいよ」
不意に、褒められ嬉しくなった。61歳です。えへん。
「あのね、まだ髪の毛、染めてないんだよね。少しだけ白髪出てきたけど、まだ黒いよ。艶もある。ちょっと細くなってきたけど、毛根はしっかりしている」←自慢。
「すごいね。血圧も、コルステロールも、糖尿もないんでしょう?」
「ないないない。人間ドックの成績は40代の身体ということでした」←自慢。
「ロッカーなのに、何て健康的なの」
嬉しくなって、自慢をした。
「歯もまだ失った歯は一本だけだよ。全部、自前」←自慢。
これみよがしに、健康自慢するロッカーであった。笑。
「はじめて会った時、辻さん、50歳だったものね」
「そうだね、あれから十年かぁ」
「あの頃より、どんどん逞しくなっていく」
「そうかな」
「あの頃はロン毛だったし、細かったから。みんな王子様って呼んでたけど、今は王様だ」
ぼくらは笑いあった。
「だって、子育て体力いるから」
「いつも日記読んでる。シングルでお子さん育てるのって、本当に大変だったよね。尊敬します」
ここのところ、フランスのママ友とばかり仲良くしていたけど、やっぱ日本人は落ち着く。なんか、水があう。同じ小川を流れていく感じがする、…。
そういえば、F先生は四十代半ばでの初産だった。ご主人はイタリアンのシェフで彼女より一回りくらい年下のイケメンなのだ。マジ、映画俳優さんかってくらいかっちょいい。
「あ、辻さん、田舎に移るんでしょ?」
不意に話題が変わった。
「うん。移るっていうか、ぼちぼち、移動する感じかな。しばらくは、2拠点生活ね。コロナが長引くこと、新たなパンデミックも出てくるだろうから、慌てないように、生活拠点を分けることにした。息子が来年、大学生だし」
「いいね。歳をとったら、私も田舎で身軽に過ごしたい。私は山口出身だから、自然がある場所が楽かも。でも、彼が田舎はまだちょっと…」
「若いから仕方ないね。でも、そのうち、考え方が変わるかも。最近、若い人たちが農業を始めて、成功しているんだ。ぼくがずっと言い続けてきたこと。これからは農業の時代になるよって。なると思う」
コロナの登場はぼくらに様々な価値観の創出を促したように思う。ぼくも小さな畑で、自分が食べる野菜くらいは育ててみたい。
「いいね。そうか、辻さん、もうすぐパパ、卒業だね」
「パパ、疲れました」
「よく頑張りました」
「ありがとう」
なんとなく、胸のおできの炎症がFさんと話していたら気にならなくなってきた。
首はまだ動かないけど、自分が年令に負けてないことを、なんとなくF先生に証明して貰えたから、これを励みに負けないでがんばらなきゃ、と思った。
生き方を変えたい。これまでの価値観を全部、総とっかえしてみたい。
太陽、水、空気の澄んだ場所で、もう一度、与えられた人生と向き合ってみたい。
そして、この追いつつある身体をもう一度、蘇らせてみたい。
「そろそろ、寝ようかな」
「じゃあ、今日は私が、辻さんに、とんとんとん、をしてあげます」
「え? 」
「とんとんとん」
ちょっとびっくりした。思いがけないご褒美であった。
ぼくは携帯を切り、布団に潜り込み、目を閉じた。
これからの残りの人生を想像しながら、ぼくは口元を緩めて眠ることになった。