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退屈日記「境地という生き方」 Posted on 2021/02/22 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、人間は生きていると、数多くの不条理に遭遇する。
今、世界的に流行しているコロナのような感染症パンデミックもあれば、自然災害もあるし、普通に生きていても降りかかる様々な事故というものまで、おそらく、死ぬその瞬間まで、人間という生き物は、数限りない不条理を経験していくのである。

退屈日記「境地という生き方」

なので、ある時から、心の片隅に、常にある種の覚悟というものを用意するようになった。
人生とか運命というものは、実はどんなに拝んでももうどうすることも出来ないものだと悟ってみると、これまでの不安が少しカタチを変えて見えるようになる。
なぜならば、人間は遅かれ早かれ、今この世に生きている全ての人が、今生を去ることになるのだから…。
逆を言えば、運命から脱出できた人間などいない。
どんなに偉大な人でも、修行を積んだ徳のあるお坊さんでも、終わりは終わり。
来世が見えるという予言者も、みんな死んでいく。
最期というものが必ず、人生にはあるということだ。

退屈日記「境地という生き方」



その終わりの先に何があるのかないのか、これも人間にはわからないようになっている。
極楽浄土とか、天国というわかりやすい言葉があるが、これは心の中にある境地のことだろう。
それが天の上に実際に存在することはない。行ったことはないけれど、…。
なので、人生の儚さを悟り、その上で、この一瞬一瞬の中に生きる自分を確かめることをぼくは安心と呼んでいる。
その安寧こそが、天国だと思って生きるようにしている。
こう考えると、人生に降りかかってくる様々な不条理とも渡り合うことが出来るようになる。

退屈日記「境地という生き方」



天変地異や交通事故に不意に遭遇することもあるし、コロナに罹って、死にそうになるかもしれない。
あるいは、実際に死ぬかもしれないけれど、人の一生というのは、この数えきれない不条理と隣接していると思っておくと、心に耐性ができる。
免れない死をほんの少し、そうかもな、と覚悟することが出来ると、不安はほんの少し、控えめになったりする。
いつ、終わりが来るか分からないことを怯えて生きることも、過去の苦しいことを背負い続けて生きることも人間だから仕方がないが、いつかは自分もこの世を去らないとならない、と思う境地が、実はぼくを楽にさせていく。
諦めではない、境地だ。

退屈日記「境地という生き方」



人間は、どんなに考えても死の先にあるものを理解は出来ない。見た者もいない。
しかし、終わりのある一生を理解することが出来るのもまた人間の可能性なのである。
死を悟ることで、逆に、今が立ち上がるというわけだ。
この一瞬一瞬を切に生きることが実際は、心を安定させる。
死を悟り、今を生きることで、ぼくは過去の記憶と和解してきた。
そして、いつも月を見上げながら、「いつか、そちらに帰ります。それまであと少し、精一杯生きさせてください」と祈るのだ。
天に召されるという言葉があるけれどが、その免れない瞬時に、素晴らしい人生だった、と思えることが天国なのだと信じたい。

退屈日記「境地という生き方」



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