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滞仏日記「冷静と情熱のあいだ、再び」 Posted on 2021/02/15 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、今日は江國さんと何年かぶりで、ZOOM越しではあったが、再会することが出来た。
そして、最後に、「冷静と情熱のあいだ」のような共同作品をもう一度やろうというところまで、話しが進んだ。
これは物凄いことかもしれない。
受講生の皆さんが証人になってくれた。ノーアイデアの状態だけれど、なぜかわからないが、ぼくは実現するような気がする。
ダメな時は、出来ない、とはっきりと言いあうぼくらだから、自然とそこに話しが進んだことは、大きな収穫でもあった。



その生授業が終わった後、ぼくは貧血に襲われ、よろっとして、壁に手を突いて、一瞬、動けなくなってしまった。
フランスの寒冷地で自撮り撮影を根詰めてやってきたからかもしれない。
江國さんという昔ながらの裏切らない仲間の声を聴くことが出来て、張り詰めていた糸が弾けたのじゃないか、と思う。
昨日は日本で大きな地震もあり、311や神戸のことを思い出したり、ぼくはちょっと不安定でもあった。
でも、もし、江國香織さんと共同で作品を紡げるなら、もう一度、ピッチにあがるサッカー選手のように、ぼくは全力で走り回ってみたい、と思っている。



ぼくも江國香織さんも30年近く作家をやってきた。もう、新人ではない。
ぼくらが、持てる力をふり絞って挑む作品がもう一冊生まれたっていいと思う。
年輪が生む、完成品があるような気がする。
それはぼくらにとって、大きな証になるだろう。
そして、待っていてくれる読者の方々がいるのだ。実現させたい。
※編集者の皆さん、あとはお任せいたします。今のぼくらにしか書けない世界観をもう一度、ここで創出させてください。ご連絡、お待ちしております。



午後、息子がガールフレンドさんのためにバレンタインデープレゼントを買いに行くと言って出かけることになった。
「今日がバレンタインだけど」
「大丈夫、会えるのは明日なんだ。あ、そうだ。ズボンが破れちゃったんだけど」
「縫っとくから、出しとけ」
「でも、お尻のところが割けたから、縫えないと思う」
「そうか。じゃあ、ズボンも一つ買っていいよ。領収書、と引き換えでお金渡すから」
「パパ、顔色悪いけど、撮影頑張り過ぎだよ。あんな寒いところで、カメラ回すから。気を付けないと、若くないんだし、自分の最期を記録することになっちゃうよ」
「最期か、それはそれで面白い作品になるな。辻仁成、青春の末期、カメラに収まる」
「ぼくが困るから、今は寝てなよ。帰ったら、何か作ろうか」
「うん。ありがとう。じゃあ、お願いしようかな」



ぼくのことを心配してくれる人間がここに一人いた。
「パパは、すぐに人を信じて、何でも調子いいこと言って、いつも騙されて、馬鹿を見る」
これが息子の口癖でもあった。
「でも、それがパパだしね」
ぼくは思い出して、笑う。地球カレッジでもこの話しになった。人を信じるか、信じないか? 受講生のどなたかがチャットで「私は信じたい」というコメントをくださった。ぼくと一緒だった。頭から信じないことは出来ない。
ぼくは、よく怒るけど、最後はいつだって許す人間でいたい。バカにされても、わざと騙されることもある。そこをまた息子がいつも指摘する。
「許すのが早すぎるよ」
たしかに。
でも、引きずっても一生、引きずらなくても一生なのだ。
ずっと過去に腹を立てているということは、つまり、いつまでも過去に牛耳られているという証拠でもある。
そういう人生はつまらん。



朝、ヤフーニュースを斜め読みするのが日課だけど、人の悪口ばかりで、うんざりする。
ぼくは、マスコミに何度もボコボコにされた人間だけど、そういう方々も含めて世界だと思うことがあるし、自分にも欠点がいくつもあるだろう。
泣き寝入りはしないけど、そこが自分の争点じゃない。
黙々と生きている真面目な人間には敵うものはいない。
ぼくはいつも、そういう世界に対して、敬意をもって生きている。黙って真面目に生きている人間には誰も敵わないのである。これは事実だ。



夕方、食べ物がないので、近くのスーパーに鶏肉と油と菜っ葉を買いにいった。
息子に作らせるわけにはいかないから、頑張って作った。
夜間外出禁止令ぎりぎりの時間に息子が帰ってきた。17時59分だった。
「ご飯、作るっていったのに。ぼくがやるよ」
「本当にダメな時は言うから」
「やれやれ」
ぼくらは並んで夕食を食べた。いつものように。
「彼女に何を買ったの?」
「秘密」
「ズボン買ったの? いくらだった?」
「26ユーロ」
「じゃあ、払うから領収書を見せろ」
「そういうところ、ぜんぜん信じてないじゃん、自分の息子を!」
ぼくらは笑いあった。
「そうじゃない。1ユーロたりと侮るな。そこで君の真価が問われる」

滞仏日記「冷静と情熱のあいだ、再び」

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